「誤解」することの大切さ(ギタリストchar)

家に落ちてた雑誌(たぶんDIMEの増刊号)で面白いインタビューが出てた。
ギタリストchar

いまだに「お、俺この音弾いてねえ」というものに出会う瞬間があるんだよ。それが最高の喜び。そうだな。閃きというか”発明する”ような、喜びがあるんだよね。

もう本当にああでもない、こうでもないといじり倒す。そうだな、オモチャの超合金をいじくり倒すうちに「うおっ、このミサイル動くの!?」って発見するみたいな。

マニュアルはない。だから観たもの、聴いたもの、感じたものを貪欲に吸収、それを元に試行錯誤できる。

限られた情報の中で手本をマネして、さらに「誤解する」。結果としてそれが個性になるんだよ。俺が聴いてきたエリック・クラプトンジェフ・ベックだって、イギリスにいながらミシシッピのブルースを聴いて、誤解して、最高の自分たちの音楽を創ったわけだから

鈴木桃子のアルバムに参加してて名前を知ったのだが、なかなか良いこと言ってる。
こういうふうにずっと楽しみ続けるというのはすごく良いと思った。
あと個人的に「誤解する」が印象的。一生懸命オリジナリティを出そうとしたんじゃなくて
ただ単に誤解しただけ。この脱力感が非常に良い。誤解して、アレンジして、
最高の自分たちのものをつくる。音楽に限らずいろいろなところに当てはまりそう。