クライミング・フリー

ちょうど1年前フリークライミングをした。
なんで始めたかとかは、また今度書こう。
結局2、3回でやめた。理由は、手をけがしそうだから。
うまい人は足の力で登るけど、下手だと手で登るわけで
手をけがするとキーボードが打てなくて、職種として致命的。
それからジムに行き始めて、半年経ってやめたとかそれもまた今度。
今日は、書評。去年サンフランシスコに行ったときに、ヨセミテ
見上げたエルキャピタンをフリーで登った人の本。

クライミング・フリー 伝説を創る驚異の女性アスリート
クライミング・フリー 伝説を創る驚異の女性アスリートリン・ヒル グレッグ・チャイルド 小西 敦子


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最初の部分に、クライミングの事故で死にかける場面が出てくる。
これが非常にリアルで、このスポーツのリスクを改めて考えさせられる。
うまく書評が書けないなあと思って、読み返してみたけどやっぱり伝えにくい。
著者がかなり負けず嫌いというのが、いろいろな部分から感じられた。
男なんかに負けるかという感じで、男女同じコースの競技で何度も優勝している。
150センチそこそこで小さな手でありながら、それを最大限に活用して
体操で培った柔軟性を活かして、やすやすと岩に登っていくらしい。


帰ってこなかった登山家とか、無茶な登り方をするクライマーとか
いろいろと出てきて、チャレンジということに対していろいろと考えさせられる。

「べガス」お金がなくなったとジョンに告げると彼はそう言った。
「べガス?なぜ?」
「冬もあたたかいし、仕事もたくさんあるし、きみが通える大学もあるし、友だちのランディ・グランドスタッフが邸宅を安く貸してくれるからさ」
ジョンはアイデアマンだし、私は物事にこだわらないフリースピリットの人間ときているから、私たちはフォルクスワーゲンのガスを満たすと西に向かった。

楽観的だったかもしれないけど、このフットワークの軽さは良いと思った。

「無知を責められるのはもううんざり。私はクライミングのことを本から学んだわけじゃなく、実践から学んだの。」

ライミングに限らず、こういうことはありそう。

ある週末、彼は腕相撲をしようと提案した。私は渾身の力を振り絞った。二人の手はまっすぐ立ったまま動かない。そのあと、彼は私が何を考えているか訊いてきた。手をテーブルに押し付けることに集中している、と答えた。あなたは何を考えているのかと訊き返すと、テーブルの向こう、無限のエネルギー源に焦点を合わせていると彼は答えた。トランス状態にあるかのように宙を見つめている彼の目を見て、その腕の中に突き破れない壁を感じた。

やりすぎると宗教ちっくになってしまうけど、人間のメンタル面のことなんて
ほとんどわかってないわけで、リラックスして力をコントロールする手法として
なかなか興味深いと思った。

われわれの背後にあるもの、そしてわれわれの先にあるものは、われわれの中にあるものに比べれば小さい事柄にすぎない。

今自分の中にあるもの、それが重要。

light is right つまり軽いことはいいことだ。これを突きつめると、「登山靴ではなくスニーカーを履けよ、リン」ということになる。

この表現気に入った。

私にとってクライミングは、何かにとらわれることのない純粋な意識の状態を体験する方法である。この心の状態が真に自由で調和のとれた時を経験させてくれる。これまでの旅行や体験の結果、地球のどこにいようと、あるいはどの頂上に到達しようと、人生における最大の意味は、つまるところ人々とのつながりだということがはっきりした。

ありきたりな答えかもしれないけど、ここまでいろいろチャレンジしてきた
アスリートの言葉として非常に重みがあるような気がする。

無分別極まると大半の人間には思える事柄がダンには日帰りのハイキング程度で、平均的クライマーにはスリリングな事柄が彼には退屈だった。自分のスタントがいかに残酷な結果になりうるかという展望が彼には欠けていて、そのせいで死んだ。この姿勢は私のクライミングに対するモチベーションとはまったく折り合わない。死をもてあそぶ必要はない。平和とおだやかな心を見つける方法としてフリークライミングすることで、私は満足している。

心当たりがないこともないので、気をつけようと思う。