国家の論理と企業の論理

読書感想文6つ目。安易な表現をすれば、非常に考えさせられる本だった。
国家の論理と企業の論理—時代認識と未来構想を求めて (中公新書) (新書)
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5つの論文が収録されており、最初の論文のタイトルが本のタイトルになっている。そのため、企業の論理はそこだけで、大半は国家と個人という視点からの論考である。アメリカ、中国に対して日本はどういう戦略を取るべきかという著者の私論も興味深いものだったが、近頃の自分の関心事と関連する部分、今後について考える上で関係しそうな部分について取り上げてみる。

ある財界人が、参加した座会のなかで「君、これからは日本を超えた発想をしなければだめだよ」と発言していた。この種の議論を「もっともらしい空論」という。確信をもって言うが、世界は正体不明の故郷喪失のコスモポリタンを信頼しない。日本人としてのアイデンティティと基軸にこだわりながら、世界に一定の敬意をもって受け止められる議論をなすことが求められているのである。

まずここから、既に痛いところを突かれた気分だった。コスモポリタンってなんかかっこよさそうだけど、よくよく考えてみたらそうでもないな。ただフラフラしてるだけだから、良くも悪くもない。

現代に生きる日本人が、近代史の教訓を踏まえ、グローバル化の潮流をいかに受け止めていくべきなのであろうか。「日本人の血」に回帰してグローバル化を偏狭に拒絶することではなく、かつ単純にこの国の在り方をすべて米国流のスタンダードによって変更することでもない選択肢が構想できるのか。課題はまさにこの点に凝縮できる。

「日本人が」という主語が大きい系は苦手なんだけど、まあいいたいことはわかる。

ただニッチ(隙間)を狙って個別に生き延びればよいということでは、日本人の「自尊」が崩壊しかねないのである。「中央戦略なき個別主義」に沈潜することなく、国の在り方そのものについての基本原理・原則に関し、米国流のスタンダードを「超克」していく道を求めねばならない。

この「自尊」とかも正直よくわかんなかったけど、自分一人が生き延びるとか、ひきこもって自分だけなんとかするとかいう段階の次のステップも、行ける人は行った方がいいだろうと解釈した。他人の生き方にとやかく口を出すことは余計なお世話なんだろうけど、自己満足の次のステップに行けるなら行こうよ、きっと行けるはずだから、なんてことを言ってるのかな。

この国は、システム設計力を駆り立て、実質年平均2.5%程度の潜在成長力を安定的に抽出し、創造的な社会政策によって「最大多数の国民の幸福」を図る国づくりの青写真を描き直すべき局面にあるといえる。レッセフェール(自由放任)に逃げ込むことは、歴史の蓄積に背を向ける思考停止である。

個人的には、わりと安易に自由放任でいいじゃないかと思ってしまうのだが、そこが自分の浅いところなのかもしれない。徹底的に調べ、考え抜いた末に結論を出すと言うことを放棄していると思わされた。あらゆることにそういう姿勢であることは困難だと思われるが、自ら選んだいくつかに対しては、そういう姿勢でありたいと思う。

日本が、外交基軸としてきた米国との関係が揺らいできたからといって「アメリカがだめならアジアがあるさ」と安易なアジア回帰を見せることは、ご都合主義的アジア観による軽薄な「非アジア的欺瞞」として拒絶されることは間違いない。

こういう安易さ、ご都合主義も、個人ベースで考えて反省すべき点のような気がした。こういう考え方を全て否定すべきだとは思わないが、それはいかがなものかと思うという視点も心がけていきたいと思う。

日本人の学生、そして日本の若いビジネスマンとの対話を通じて感ずるのは、彼らの本音の中に、「なぜ、国を守らなければならないのか」という醒めた問題意識があり、さらに「日本は守るに値する国なのか」という本質的懐疑さえ定着しつつあるように思われる。

自分の生活に至上の価値を置き、相対的にしか国家とか社会とかの問題に関心を抱かない人たちが、日本人の大部分を占めてきているという現実を直視しなければならない。〜中略〜「生活保守主義」や「ミーイズム(私生活主義)」の風潮を嘆いても始まらない。私生活の価値を一歩も踏み出せないような人間しか、戦後の日本はつくりだせなかったのである。

全体に対して個の尊厳を守ろうとする知的緊張に満ちた個人主義とは異なり、私生活中心の生活保守主義をたっぷりと許容して現代日本が成立していることは間違いない。

自分の今のスタンスが、決して個人主義とは呼べず、ただの私生活主義に過ぎないというのは、否定できない。結局のところ一番楽だからミーイズムに落ちついてしまったんだろう。それ自体がいけないことだとは思わないけど、そこから一歩先に進める人がその段階に落ちついてしまうのは、寂しい気分がするかもしれない。で、自分はどうなのか。自分のことでいっぱいいっぱいなのか、それとも一歩先に進めるのか。進みたいのか。自分は一歩先に進める人間だと勝手に解釈してしまった方がいいような気がした。そうすると、どういう方向かを考える必要が出てくる。自分がこれまで積み重ねてきたこと、自分が狂気と呼べるほど好きなこと、うまくマッチしたところならば、もっと前に進めるだろう。

薄っぺらな時代認識や流行の議論に漂っている限り、決してあるべき未来は見えてこないこと。ジョークとナンセンスへの悪乗りだけで思考を収斂させる努力に欠ける青春が、とても何かを成熟・結実させるとは思えないこと。

サロンで知識を競うような教養人になってはならない。環境に動じない重心の低い知性とは何なのか。〜中略〜結局は自分自身の体験軸でしか思考は収斂しないことを確認させられた。

大切なのは知識じゃない。知識は日課として当然身につけておくべきものであって、知識と思考に基づいた行動が必要なんだろうな。まだ抽象的なことしか書けないのがもどかしい。世の中に自分がどう関わっていくのかをほとんど考えてなかった。あえて考えないようにしていたのかもしれない。自分にしかできないことがあると思うし、そう思いたい。これまでの自分が、うまく活かされる形でできそうなことをやればいい。何もかもできるわけがないから、やらないことは意識的に外していかないとな。

世の中には簡単には理解できない難しいことがあるのだ。難しいことから眼をそらさず、真剣に考えることも大切である。ユダヤ人のことわざに、「朝寝、昼酒、幼稚な会話、そして愚か者の集いに名を連ねること、これが身を滅ぼす」という至言がある。

実に良い言葉だ。別に誰もがやんなくちゃいけないなんてことは思ってない。自分がなんか底の浅い人間だなと感じ始めて来たから、そうじゃない方向も見ているだけの話だ。ただ生き残るのだってそんなに楽というわけじゃない。でももっと先に進めてみるという選択肢は存在するわけで、それを選んでみるという手も悪くないと思うのである。読み方によっては、なかなか刺激的な一冊だった。