紹介記事をみて面白そうだったので読んでみた。
- 作者: オイゲンヘリゲル,Eugen Herrigel,柴田治三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1982/10/16
- メディア: 文庫
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弓を射ることは弓と矢とをもって射ないことになり、射ないことは弓も矢もなしに射ることになる。
意味不明と思ったが、最後まで読んだら雰囲気がわかった。
- 弓術は、弓と矢をもって外的に何事かを行なおうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。
- 日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。
- 欧米人にとっては、原文に頼ってこれを翻訳し、注釈を施し、試験ずみの哲学的方法によって処理するほかなすべきことがない。欧米人はこれだけやってしまうと、科学的に検討し尽くされた原文がこれで本当に把握されたと思い込む。
- 仏教に関する文献の単なる字義の理解だけでは、仏教の本質、わけても禅の本質に、したがって禅にその真髄を求めるべき日本のもろもろの術の本質には、一歩も迫りえないということを、あなた方に悟らせてあげたいのである。
自分に日本人ならではのアドバンテージがあるとすればここなんだろうな。このあたりの理解を深め、うまく活用していくことが、今後自分が差別化してやっていく上で重要なことの一つだろうと思う。
- 弓術はスポーツではない。したがってこれで筋肉を発達させるなどということのためにあるものではない。あなたは弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばなければならない。
- 術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。
力を抜くこと。肉体的にも精神的にも。忙しい状況になっても一呼吸入れるとか、冷静になるとか、そういう基本的なところからつながっていくんだと思う。
経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。
ここまで言語化してくれた時点で十分ありがたいのだが。あとは日々の心がけなのかな。
- あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考えだすのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、渡しというこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう。
- 日本人が生半可な良くない仏教徒なのであのように驚くほど活動的なのではない。それどころか、その国に生きて働いている仏教こそが日本人の活動性を認可するのである。
小手先の技巧を超えて、どんな世界が見えてくるのか。そういう視点を忘れずにいたいと思う。