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ポアンカレ予想

読書

週刊d_pressureで絶賛していたので買った本。

ポアンカレ予想―世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者 (ハヤカワ文庫 NF 373 〈数理を愉しむ〉シリーズ)

ポアンカレ予想―世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者 (ハヤカワ文庫 NF 373 〈数理を愉しむ〉シリーズ)


これは面白かった。ポアンカレ予想といえば我が道を行くペレルマンがよく知られているが、この本では最初と最後に出てくるだけでメインではない。そもそもポアンカレって何をした人?とか、トポロジーって何から始まったの?とか、ポアンカレ予想とは何?とか、どれだけたくさんの人が撃沈していったかとか、ハミルトンがどんな貢献をしたかとか、リッチフローとは何かとか、ペレルマンがarXivに出した後どうなったかとかが一つ一つ丁寧に書かれている。非常に読み応えがあるんだけど、どんどん読み進められる。

ポアンカレは絵がどうにも下手で、成績は零点だった。そのような成績が一科目でもある受験生にグランゼコールへの入学を認めるわけにはいかず、ある試験官はパリの同僚宛にこう書いている。「ナンシーにまれに見るほど優秀な受験生がいる。だが、われわれは困っている。入学を許されるとしたら主席になるだろう。だが、そもそも入学を許されるだろうか。」学校側の英断によって、デッサンの成績の問題はよろしく対処され、ポアンカレは主席で入学を認められた。

デッサンが苦手だったからこそ、トポロジーにうまくフィットしたのかなと感じた。ポアンカレは、その後パリ国立高等鉱業学校(エコール・デ・ミーヌ)で学んだ。ルノーのカルロス・ゴーン氏や、アレヴァのアンヌ・ロベルジョン氏もここの出身である。(追記を参照)ポアンカレは、まず鉱山技師となり、炭坑の事故の調査をして再発防止のために原因究明を行ったとのこと。そういうルートがエリートコースというのは興味深い。それだけ鉱山に関する技術がフランスにとって重要であるということがうかがえる。しかし、すでに数学界で高い評価を受けていたので、カーン大学の教授に任ぜられ、鉱山技師の仕事は8ヶ月で終わった。

ポアンカレが数学者に求められる厳密なルールに必ずしも従わないことは、学会では既に知られていた。子どものころ、口に出すより速くアイデアが浮かんで、言っていることがよく意味不明になったが、数学の論文でも同じように、細部まで詰める時間を十分に取らないことがあった。証明でいくつかの段階を省いて、読者を慌てさせることもあった。

こういう小話を知ると不思議と親しみを感じる。

ポアンカレは、既存の数学分野を全て完全に理解していた最後の数学者のひとりだった。もうひとりは、ゲッティンゲンのダーフィト・ヒルベルトである。このふたり亡きあと、数学は20世紀前半のうちに分野の枝分かれが急速に進み、一人の数学者が自分の専門外について理解することは望めなくなった。

ポアンカレのフランスとヒルベルトのドイツが中心的な存在だったのだろう。しかし、現代の論文の大半は英語で書かれているわけで、ナチスの台頭で多くのユダヤ人がアメリカに亡命して、アメリカが発展していったからなんだろうかと思ったりした。それからトポロジーの話。ケーニヒスベルクの橋の問題に対して、オイラーがこんなことを言ったそうだ。

「これまで、そのような順路を見つけることが可能だと示した者もいないそうです。問題自体に独創的なところは何もないのですが、幾何学も代数学も計算法もこの問題の解決には役に立たないという点に注目する価値があると思われます。その意味で、ひところライプニッツが熱心に取り組んでいた位置の幾何学に属する問題ではないかと考えております。」

これまでの手法が役に立たないという点に注目する価値がある。こういう考え方は面白い。これまでのやり方の延長線上で解けるならば面白くない。そういう問題の捉え方というのは重要な気がする。

では、ポアンカレの主張を、厳密さを欠くかもしれないがもっと簡単に表現してみる。「穴もねじれもない任意の物体は球面に変形できる(ここでいう物体と球面は、どちらも四次元空間に浮かぶ三次元物体)」。ポアンカレはこのことの証明を示さなかった。論文が組版にして33ページ分にもなったので、それ以上長くしたくなかったのだ。そこで、こういう言葉で結びにつなげている。「論文がこれ以上長くならないよう、ここでは、証明にまだ細かい詰めを要する次の定理を紹介するに止める」

予想というニュアンスとは少し違うのかもしれない。証明を示さなかったのは事実だけど予言めいたニュアンスは特にない。結びは、余白が足りなかった誰かさんと似たような感じだな。そして多くの数学者がこの問題にはまり、

「私はしばらくのあいだ自分の『証明』に欠陥を見つけられなかった。その誤りはきわめて明白であったにも関わらずである。問題は私の心にあった。盲信、興奮、それに、ひょっとしたら謝っているのではないかという心の奥の恐怖が、私に合理的な考えをさせなかった。こうした無意識の抑制をなくさせる手法を培うことが、誠実な数学者にはぜひとも求められるべきであろう」。

というくらい思い詰めてしまう人が出てくるほどだ。

ハミルトンのアイデアは、実にシンプルなものだった。どんなによれよれの多様体でも、ひしゃげた多様体でも、ねじれた多様体でもいい、リッチフローによって変形する様子を見守る。どんな形になるだろうか。もし八個の素多様体のうちの一つか、その組み合わせになれば、サーストン予想が正しいことになる。され、ここが話のサワリである。どんなによれよれでも、ひしゃげていても、ねじれていても、すべての単連結な多様体が最終的に跡形もなく「パッ」と消えたなら、ポアンカレ予想が証明されたことになるのだ!

こんな感じで問題を置き換える人の存在は貴重だ。置き換えたところで解けるとは限らないけれども。

奨学金期間の終わりが近づくと、ペレルマンはアメリカの友人や同僚たちに別れを告げた。スタンフォードプリンストンのような第一級の大学からポストを提供したいとのオファーを受けていたが、すべて辞退した。そして自国へ戻った。ステクロフ研究所に戻ると、彼は行方をくらましたも同然になってしまった。ほぼ完全にひとりで、彼は熱心にポアンカレ予想に取り組み始めた。安月給はアメリカで貯めた金で補った。6年間、彼は秘密を誰にも伝えず一人で働いた。ときおり情報が必要になると、特定の質問を書いた電子メールを同僚に送った。そのころペレルマンと多少でも接触を持ったことのある人はだれもが、彼の質問には深さがあり、彼は才気にあふれていたと認めている。

アメリカで貯めたお金で暮らしながら、ひたすら問題に取り組む。一人で何年も。芸術家みたいだな。

MITの階段講堂は満員だ。遅く来たものは床に座るか、うしろで立っている。何百人もの人々—数学のあらゆる分野からの、若い学生たち、老教授たち、多くのニューイングランド地域の数学者たち—が、ニュースを待っていた。ロシアのサンクトペテルブルクにあるステクロフ数学研究所の数学者グリーシャ・ペレルマンは、長いあごひげをはやしダークグレイのスーツを着ていた。講演を待つ2枚の大きな黒板の前を、彼はゆっくり行ったり来たりしている。聴衆が静まるまでに、さらに数分かかった。そしてようやく、MITのヴィクター・カッツにより、ペレルマンが紹介された。ペレルマンはマイクロホンをテストして、順序立てて話すのがへたなので、活気ある講演にするために明快さは犠牲にするつもりだと言った。会場が沸いた。次に彼は、特大の白いチョークを手にとって、1982年にリチャード・ハミルトンによって導入されたリッチフローの定義を黒板に書いた。

ペレルマンというと賞金や賞を辞退する変人だみたいな論調が多いけれども、自分の証明の説明をするために多くの大学での講演を引き受け、質問には一つ一つ丁寧に答えていて、非常に誠実な人柄がうかがえた。単に何もわかってないやつにちやほやされるのが嫌なだけだし、誰の功績なのかという面倒なやりとりに首を突っ込みたくないだけなんだろう。別に賞金のためにやったわけじゃないし、面倒なことになるくらいならば全部断ってしまうというのは非常に理解できた。不快な思いをしてまでもらいたくないのだろう。最後は、この本の著者の数学者らしい言葉で締めくくっている。

だが、数学という営みに終わりはない。ある問題の解決に成功すると、数多くの新しい問題への扉が開かれる。数学に向き合う者はたやすく、自分の小ささを思い知らされる。未解決の問題はそれこそいくらでもあるのだ。この壮大な知的探求の灯を、これからも燃やしつづけていこうではないか。

密度が濃く、わかりやすく、非常に面白かった。

追記

国立鉱山学校の下りを読み返してみた。

1873年秋、ポアンカレはパリに引っ越し、高等理工科学校(エコール・ポリテクニーク)に通うこととなった。
・・・
ポアンカレは卒業後、グランゼコールのひとつである高等鉱業学校(エコール・デ・ミーヌ)で三年間勉強を続けた。
・・・
科学の基礎を学び終えているポリテクニーク出の学生(ポリテクニシャン)は、卒業時の席次によっては、この学校の鉱山局(コー・デ・ミーヌ)課程と呼ばれるエリート養成課程への進学がただちに許される。これは公共団体や民間企業の未来の管理職を育成する課程で、学生は国家のために国と企業の間に立って活躍するのに必要な技術的、経済的、社会的な術(すべ)を教授される。今日、鉱山局(コー・デ・ミーヌ)課程には毎年15人ほどが入学するが、その3分の2がポリテクニーク出(ポリテクニシャン)だ。
・・・
1978年6月13日に開かれた評議会で、ポアンカレは高等鉱業学校(エコール・デ・ミーヌ)からの卒業を認められた。24歳で晴れて鉱山局(コー・デ・ミーヌ)課程を終了し、新人技師として職務に就く準備ができたのだった。

People entering the Corps are educated at the École nationale supérieure des Mines de Paris, with a special curriculum distinct from that of ordinary students. Most of them are from École Polytechnique; these are known as X-Mines; others come from École Normale Supérieure (ENS) or the regular curriculum of the École nationale supérieure des mines de Paris.

Corps des mines - Wikipedia, the free encyclopedia

Elle entre en 1978 à l’École normale supérieure. Elle obtient l’agrégation de sciences physiques avant de devenir ingénieur du corps des mines.

Anne Lauvergeon - Wikipédia

He graduated with engineering degrees from the École Polytechnique in 1978 (X1974) with the final year's specialisation at the École des Mines de Paris.

Carlos Ghosn - Wikipedia, the free encyclopedia

ICiv : ingénieur civil
ICM : ingénieur du corps des mines
・・・
Carlos Ghosn/ICiv 1975/Président directeur général de Renault, et président de Nissan
・・・
Anne Lauvergeon/ICM 1982/Présidente du directoire d’Areva

Parcous d'ingénieurs issus de l'école - MINES ParisTech

Henri POINCARÉ est Ancien élève de Polytechnique (promotion 1873, entré major et sorti 2ème sur 226 élèves à la sortie juste derrière le major de promotion Marcel BONNEFOY), et de l'Ecole des mines de Paris (entré en 1875 classé 2, diplômé en mars 1879 classé 3 sur 3 élèves ; voir le relevé de notes de sa scolarité). Il appartient au Corps des mines.

Jules Henri Poincare