「千人の忠実なファン」を読んで

ケヴィン・ケリー本の続き。
http://memo7.sblo.jp/article/12799892.html
実はこの記事、原文で読んで感想をブログに書いている。

ざっくり言うと、そのcreatorのために年間100ドル使ってくれるFanが1000人いればよくて、10万ドルあれば、経費を差し引いてもまあ生活していけるだろうという話。

1000人の真のファン - technophobia

ロングテールのヘッドでもなくテールでもなくその間に生き残る道があるはずだという主張で、このへんの仕組みを上手く利用しているものとしてKickstarterが挙げられるかもしれない。この記事自体は覚えていたので、特にどうということはないが、8章と9章に出ていた続きが興味深かった。

今年の新作が去年とほとんど同じで、黒の色調がちょっと違うだけであれば、新作を買おうとは思わない。しかし、ファンには最初に自分を「忠実なファン」にした快適な領域というものがあって、お気に入りのアーティストがそれを超えて進んでしまっても、自分の快適な箱の中だけでしか注目の範囲を動かさないようである。あちらを立てればこちらが立たず、と言ったところだ。

「忠実なファンの支援による生計の実態」: 七左衛門のメモ帳

ジャロンはこの条件に合致する音楽家がまだ一人も見つからないと言っている。すなわち、新しいメディア環境で生計を立てるのに成功した音楽家は誰もいないというのだ、誰も。「無料より優れたもの」で私が示した「生成力」に基づいて成功している音楽家がいない。デジタルに生まれて新しいメディアで生活費を稼ぐ音楽家がいない。

「千人の忠実なファンの反例」: 七左衛門のメモ帳

興味深い理論ではあるけれども、実際にそれで生計を立てている音楽家はいないそうだ。画家であればいるらしい。ロングテール関連で言えば、18章もなかなか興味深い。

しかしロングテールになると、創作者から切り替わって、他の創作者の作品を集積する業者の観点で論じるようになる。それはなぜか?創作者はどうなったのか?ロングテールという「利益のポケット」の話になると創作者が脱落するのは、ロングテールは創作者にとっては利益が出ないからである。その採算性は視聴者と集積業者だけのものなのだ。

「愛のロングテールというしっぽを振る」: 七左衛門のメモ帳

私たちはテールの根もとにある、見えない存在の認識を誤っていた。「商業的利益という野獣」のロングテールではない。そうではなくて「愛というドラゴン」のロングテールなのだ。創造や制作、つながり、説明できない情熱や差別化などへの愛、あるいは人間にとって重要な行為に対する愛、そして、つながること、与えること、学ぶこと、創造すること、共有することへの愛である。

「愛のロングテールというしっぽを振る」: 七左衛門のメモ帳

ロングテールモデルのヘッドを目指さなくても、ヘッドとテールの真ん中で生きる道があると説く。テールは集積した業者が儲けるところでアーティストは儲からない。つまり生活できないとのこと。でも実際のところヘッドとテールの間で生計を立てている人は見つかってない。着眼点が素晴らしいし、実際にその渦中にいるアーティストの話は非常に説得力がある。働き方が多様化してきて、いろんなやり方があるんだなということを実感した。