悪魔に仕える牧師

虹の解体、盲目の時計技師、利己的な遺伝子で知られるリチャード・ドーキンスのエッセイ集を読んだ。

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師


大学生の頃に買ったのだが、取っ付き難くてずっと積ん読状態だった。当時と比べると多少は理解する力がついたかもしれない。科学教育、宗教、情報、ダグラス・アダムス、グールド、アフリカなどに関するドーキンスの鋭く力強い言葉をまとめた本である。

  • 私は、科学者としてダーウィン主義を支持すると同時に、こと政治の話になり、人間界の諸問題にどう対処すべきかということになれば、私は熱烈な反ダーウィン主義者である

実に明解な言葉。進化論を拡大解釈して政治的な意図に使うことを厳しく糾弾している。

  • しかしあなたは、すべてのなかで最大の天賦の才を持っている。私たちすべてをこの世に存在せしめた無慈悲で残酷な過程を理解できるという才、それがもつ意味合いに反逆できるという才、予見するという、無様な短期的な自然淘汰にはまったく馴染みのない才、そして宇宙そのものを内面化するという才である

人間の可能性をこうやって指摘されると、なんか元気が出てくる

  • ここまで私は、私たちが心の中に立てた人間と「類人猿」の間の不連続な断絶は嘆かわしいものであることを論じてきた。また、いずれにせよ、神聖視された断絶という現在の立場は恣意的なものであり、進化的な偶然の出来事の結果である。もし、生き残ったものと絶滅したものの賽の目が異なっていれば、断絶は違った場所にできていただろう。偶発的な気まぐれに根拠をおく倫理的原則は、絶対的なもの(意思に刻まれたもの)のように尊重されるべきではない

ここもなかなか切り込んでいる。神聖視されているものの徹底して見直そうというスタンスがいい。

  • 私は何も、いわゆる「代替医療」のすべてがホメオパシーのように無益だと言おうと思っているわけではない。ことによると、そのうちのあるものは効くのかもしれない。しかし、それらは、二重盲検試験か、あるいはそれに匹敵する計画的な実験によって実証されなければならない。そして、もしそうした試験に合格すれば、もはやそれらを「代替」と呼ぶべき理由がなくなるだろう。

実にシンプル。「代替」という存在そのものがいろいろ矛盾している。

  • 私は、「喜びに満ちた人生の秘訣は、危険な生活をおくることだ」というニーチェの意見に賛成する。喜びに満ちた人生とは積極的な人生である。それは、いわゆる幸福のような、だらだらした静的な状態のことではない。アナーキーで、革命的で、エネルギッシュで、悪魔的で、ディオニソス的な情熱の炎が燃えたぎり、想像への恐ろしいほどの衝動に溢れるほどに満たされる。これこそが、成長と幸福のために、安全と幸福を危険にさらす人間の人生だ。

こんなに清々しい文章を久々に読んだ気がする。

  • なんと心ときめく考え方ではあるまいか?われわれはアフリカ鮮新世を記録したデジタル文書の図書館であり、さらにデボン紀の海の記録さえある。古き時代からの知恵を詰め込んだ歩く宝物庫なのだ。そしてこの太古の図書を読むのに一生涯を費やすことができ、なおかつその神秘を味わい尽くさないままに死ぬのだ。

シャノンの情報理論に対する端的な説明から遺伝子に話は移って、そして最後にこの引用。こういう視点はなかったので非常に新鮮に感じた。

  • 私の論点は、宗教そのものが戦争や殺人やテロ攻撃の動機付けになっているというのではなく、宗教が、「われわれ」に敵対するものとしての「彼ら」を識別するための基本的なレッテル、最も危険なレッテルだということである。
  • 宗教こそ、歴史において最も扇動的に敵というレッテルを貼り付ける装置だと言っても誇張ではない。
  • 人間の心は二つの大きな病気をもっている。すなわち、世代を超えて復讐心を伝えていく衝動と、人々を個人として見るのではなく、集団としてのレッテルを貼り付けたがる傾向である。

これは本当にどうしようもないなと思うけど、どうしようもないでは済ませられないことなんだろう。

  • 世界は、極端に混沌とした複雑さと豊かさと奇妙さを持つもので、絶対的に畏怖の念を引き起こすものです。私の言いたいのは、そのような複雑さが、そのような単純なものから生まれてくるだけでなく、おそらくは、まったく何もないところから生まれてくることができるという考えは、実に途方もなく驚異的であるということです。

これはダグラス・アダムスの言葉。銀河ヒッチハイクガイドの背景にはこういうものがあるんだな。

  • 多くの点で私たちは意見を異にしたが、自然界の驚異に魅了される歓び、そしてそのような驚異こそ、まさしく純粋に自然科学的な説明に値するという熱い確信を含めて、共通するところも多かったのである。

グールドについてこう評した。意見の違いがあっても、敬意を払うところは敬意を払っていて好感が持てる。

  • もしあなたが、エデンの園を遅ればせながら一目見たいと思うなら、チグリス川やユーフラテス川や農耕の黎明のことは忘れたほうがいい。代わりに、セレンゲティ平原やカラハリ砂漠に行くべきだ。ギリシアのアルカディア(桃源郷)やオーストラリア奥地原住民のドリームタイムは忘れることだ。あまりにも年代が新しすぎる。オリュンポス山やシナイ山から、あるいはエアーズロックからでさえ、何が伝えられてきているにせよ、代わりにキリマンジャロ山を眺め、あるいは大地溝帯の高地草原に向かって下るがよい。そこには、人類が反映するために設計された場所があるのだ。

そんなことを言われると気になってしまう。

  • 世界について知るために科学者が用いる方法は、私が短い手紙で説明できるよりも、もっと頭のいいもので、もっと複雑なものです。しかし、今度は、何かを信じてもよい理由である証拠から話を進めて、何でも信じてはいけないという三つの悪い理由について、君に警告しておきたいと思います。それは、「伝統(伝説)」、「権威」、「啓示(お告げ)」と呼ばれています。
  • 伝統がもっている困った点は、ある話がどんなに昔につくられたのかに関係なく、いつまでたっても、最初の話がそうであったのとまったく同じように、真実あるいは偽りのままだということです。もし君が真実ではない話をこしらえて、それをどれだけの世紀にわたって未来に引き継がせたとしても、それはちっとも真実に近づくわけではないのです。
  • 何かを信じるための理由としての権威は、誰か偉い人からそれを信じるように言われたから信じるということを意味します。
  • 科学者は、どんなときでも、アイデアを得るために、内面の感情を使うのです。しかし、証拠によって支持されるまでは、そうした思いつきは、何の価値もないのです。
  • 今度、誰かが、大切そうなことを君に教えたときには、自分で「これは、証拠がきっとあるから人々が知っているというような事柄なのだろうか?それとも、伝統、権威、お告げだからという理由だけで信じているような事柄なのだろうか?」と考えてみるのです。

最後は10歳になった娘へのドーキンスからの手紙。非常に分かりやすい。大切なことは実にシンプルに説明できるものだなと感じた。敵を作ることを厭わず、確固たる自信を保ち、論理立てて率直な意見を次々に展開する姿勢が素晴らしい。当たり前のことだけれども、そういう基本が大切なんだと改めて気付かされた。分野はどうあれ、このような姿勢で物事に取り組みたいものである。