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ロシア宇宙開発史

読もうと思ったきっかけはこの書評。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012091000009.html

技術の進歩というのは、アメリカや西ヨーロッパ側の視点で見ることが多いので、ロシアの宇宙開発というのは非常に新鮮でとても面白かった。ロシアの気球、ロケット弾に始まり、途中で東ドイツの開発に場面が切り替わり、終戦後に東ドイツの技術を吸収するソ連が詳述され、ガガーリンへとつながる壮大な本だ。

19世紀後半には大量の月や火星をテーマにした空想科学小説が出現した。それらの中でとりわけ重要なものは、フランスの作家ジュール・ヴェルヌの『月世界へ行く』(1869年)である。発売後すぐに各国語に翻訳され、一般大衆のみならず、アメリカ、ロシア、ドイツの宇宙飛行マニアに大きく影響を与えた。

この本の影響を受けた研究者がたくさん出てきて、その影響力の大きさを思い知った。空想する力と実現する力、どちらも偉大だ。

フランスのジョゼフ・モンゴルフィエは煙が上昇するのを見て、煙には物を持ち上げる力があるのではないかと考え(のちにこれは勘違いであることに気付いて考えを修正した)、弟のエチエンヌ・モンゴルフィエと二人で、熱した機体で浮力を得る気球、今日でいう熱気球の発明に取り掛かった。

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このころまでは、気球に乗って上昇すれば宇宙へ出て行けると考えていた人たちも実際にいた。ヨーロッパでは、気球を用いて高空に上昇してゆくことが競って行われたが、高度が上がるに連れて気球搭乗者が不快感を訴えるようになった。

今思うと当然のことだけど、当時は誰も試みたことがなかったわけであり、新しい試みというのは命がけなんだなと感じた。ちなみにロシアではこんな感じ。

モンゴルフィエの熱気球初飛行の一ヶ月後、1783年11月24日にはサンクト・ペテルブルグで紙製の熱気球(無人)が作られ、飛行した。しかし、熱源の火が民家の屋根に落ちて火事騒ぎとなり、翌1784年の4月2日、時の皇帝エカテリーナ二世名で、雪のない3月1日から12月1日までは熱気球飛行禁止、違反者は20ルーブリの罰金との布告が出された。

という感じで序章が終わる。人間の歴史というのは失敗の歴史であるというのは、この本の様々な部分から窺い知ることができる。それからロケット弾の話。

火薬の力で鉄砲や大砲から打ち出されるのは銃弾あるいは砲弾であるが、弾丸を火薬で打ち出すのではなく、弾丸が火薬を自蔵してその燃焼(爆燃)ガスの推進力、すなわち「ロケット推進」を利用して飛行するものをロケット弾という。

こんな定義があったとは知らなかった。だからロケット花火はロケットなのか。

コンスタンチノフの死後、ロケット弾は兵器の前面から姿を消してしまう。その大きな理由は線条付き元込め銃が19世紀中ごろドイツで発明されたことにある。線条付き銃は17世紀から存在したが、いずれも先込め銃(銃口から弾丸を詰める方式)であった。線条付き元込め銃は弾丸を銃身の後ろから詰める方式で扱いやすく、線条で回転を与えるため命中精度は格段に改良され、かつ火薬の性能向上で射程も増していた。

一度出てきても、様々な要因で浮沈するというのは、いろんなことに共通することという気がした。その後、気球の移動にロケット推進を利用するという考え方が出てきて、アイデアだけだが宇宙空間のロケット推進装置というのも出てくる。そこでロシアの「ロケットの父」と呼ばれるツィオルコフスキーについてけっこうページが割かれていてなかなか興味深い。やはりというべきかジュール・ヴェルヌの影響が大きいそうだ。ロケット推進の計算自体はニュートン力学なので、大学生のときにやった「モスクワの森」そのもの。極めて実例に即した本だったんだなと今更ながら知る。

私たちの惑星は知性のゆりかごである。しかし、永遠にゆりかごの中で生きてゆくわけにはゆかない。

この言葉もツィオルコフスキーの言葉。

帝室サンクト・ペテルブルグ科学アカデミーは帝政が倒された1917年にロシア科学アカデミーと改称され、さらに1925年にはソ連科学アカデミーと再度改称されたが、1920年代に構成員に大きな変化があった形跡はない。むしろ、科学技術は奨励され、生まれたばかりのソ連では科学立国が国是となっていた。

時の為政者が科学に対してどんなスタンスで接するかという側面からみてもこの本はなかなか興味深い。

モスギルドは、当初はツァンデルといういささか浮世離れした人物(彼は、毎朝、着席前に「火星へ向かって前進!」と叫び、周囲の人たちはこれを微笑んで見ていたとのことである)のもとにマニアが集まった求心力の乏しい集団であった。これを空想家の集団から実行集団に変えたのは、設立してまもなくギルドに加わったセルゲイ・コロリョフである。

こういう人がいるから面白い。

ギルドは、手弁当のボランティア団体で、給料は支払われていなかったが、1932年夏以降、労農赤軍軍事発明局の予算がつき、ある程度、人件費の支出ができ、専任者に給料の支払いができるようになった(ギルドには専任・兼務含めて当時44名の人がいた)。コロリョフは、1931年12月からツァーギ勤務となっていたが、多分、このときにツァーギを辞めてギルド専任となったものと推測される。

スカンクワークスとは別の意味で少数精鋭な感じがする。

3月13日に行われたOR-2エンジンの燃焼試験では、最初打撃音があり、五秒後、耳を聾するような打撃音があって燃焼室に裂け目が出来て煙が出た。

こんなのばかり。手探りで試行錯誤を続ける大変さがよくわかる。

OR-2エンジンは結局完成しなかった。18日朝、保養所で腸チフスを発症したツァンデルは人事不省に陥り、そのことを知らず、1933年3月28日に保養先で他界した。彼は、ギルドからもらった旅費を家族のために浮かせようと節約して三等車に乗って、乗客から病をうつされてしまったのであった。

いろいろ悲しすぎるけど、当時の雰囲気もなんとなく伝わってくる。

気体力学研究所出身者とギルド出身者との間に軋轢も生じていた。軋轢には、おおよそ6つの原因があった。第一に、気体力学研究所は主として軍用ロケット弾を開発していたのに対し、ギルドは液体ロケットエンジンを用いた成層圏あるいは宇宙を飛行する機体の開発を目指しており、開発の姿勢が噛みあわなかった。第二に、気体力学研究所は官、ギルドは民の組織であって、組織の文化が根本的に異なっていた。第三に、両者の間には歴然とした組織としての成熟度の差があり、気体力学研究所はすでに10年以上の歴史と200名を超える所員を持つ大所帯の組織として機能していたが、ギルドは寄せ集めの100名以下の集団でまだ組織の態をなしていなかった。第四に、液体ロケット推進薬の酸化剤として気体力学研究所は硝酸を使用していたのに対してギルドは液体酸素を用いていた。そして液体ロケット・エンジンの技術的な面では気体力学研究所のほうが進んでいた。第五に、レニングラードとモスクワ両都市の水面下での張り合いがあった。第六に、所長クレイミョノフのマネジメントのまずさがあった。軍では上官の命令は絶対である。軍人であった彼は「民」であるギルドを下に見る態度をあからさまに示し、権力で旧ギルド・グループを抑えつけようとした。

固有名詞を入れ替えたら現代でも全然違和感のない話。

クレイミョノフは分割に際して反動推進研究所が国防工業人民委員部の所属となるよう運動し、この運動は成功した。国防工業人民委員部に所属すると国防予算がつくとの期待があった。しかし、いざ国防工業人民委員部に所属してみるとさまざまな制約が出てきた。国防機密管理が厳しくなり、対外発表は禁止され、前述のシュテルンフェルトなど外国人所員は解雇された。また、研究所名称に関する国の方針が出て、すべて番号で呼ぶことになり、反動推進研究所は、国防工業人民委員部に移管されると同時期に第三研究所と名前を変えた。

これもまたどこにでもありそうな話だ。歴史から学ぶことができるものは多い気がする。そんななかでもロケット開発は着々と進んでいたが、ソ連っぽいなあと感じることも勃発。

大テロルは、当初は政治家、高級官僚が対象であったが、やがて軍部にも波及し、第三研究所(旧反動推進研究所)生みの親であるトゥハチェフスキー元帥をはじめとする上級将校8名が1937年5月26日逮捕され、拷問と非公開軍事裁判の結果ドイツのスパイ容疑(事実無根であった)で「人民の敵」であるとの判決を受け処刑(銃殺)された。

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その後大テロルは、軍のみならず社会の様々な層に及び、密告が奨励され、特に組織の幹部クラスが続々と逮捕された。逮捕された人々は、ほとんどが身に覚えのない罪状で抑留された。そして、同僚、友人たちを共犯者として自白することを強いられ、その結果、芋づる式に、多くの人々が「人民の敵」として逮捕されることとなった。

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クレイミョノフは自宅で逮捕されたとき「何かの間違いだろう。すぐ戻ってくる」と妻に言い残して家を出たきり二度と戻らず、その後家族に何の連絡もなかった。

なんだこのわかりやすい死亡フラグ

航空機工場の管理職たちは、早々と裁判に付されて処刑(銃殺)されたのに対し、ツポレフやペトリャコフがすぐに裁判に回されずに予審に時間をかけていたのは、技術的なことを罪状として立件するのに時間がかかったことに加えて、大テロルの方向変更もあり、専門家たちを処刑せずにその専門技術をできるだけ生かすことを考えていた予審判事もいたからであった。シャラーシカでは、専門家たちは、外部に出歩くことはできなかったが、良い食事を与えられ、清潔で快適な住環境な中で、好きな仕事に没頭できた。

ボルシェヴォのシャラーシカは、翌1940年1月モスクワ市内に移された。移された場所は航空機開発のメッカであり、ツポレフの古巣でもあるツァーギの中であった。ツァーギの中に窓に鉄格子をはめた独立の建物がこのために準備された。このシャラーシカは、第29設計局と呼ばれた。逮捕者がどうなったか公式には通報されなかった当時、ツポレフはすでに銃殺されたとの噂が流れていたので、彼が姿を現したときツァーギ内は爆弾が落ちたような騒ぎであったそうである。

収容所にもいろいろあるということがわかる。そんな時代でも専門知識をできるだけ生かすことを考える人がいたというのは、なんか少し嬉しく思う。

ロケット・エンジンによる加速装置は普及したものの、パイロットたちはこれを用いるときには、不慣れなこともあって緊張した。Yak-3のあるテストパイロットは、ロケット・エンジンの加速装置をつけた飛行機で飛ぶときには、「牝虎とキスするようなもので、怖さいっぱいで快感はない」と語った。

作る方も大変だが、乗る方はもっと命懸けなわけで、いろんな人が冷や汗をかきながら技術は進歩してきたんだなと思った。この後ドイツの話がいろいろ出てくるが、それもなかなか興味深い。

ヒトラーは、同日すなわち1943年8月22日付で親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに、「親衛隊は強く介入することによって、強制収容所の労働力を駆り立ててA-4生産設備の建設とA-4生産に必要なあらゆる手段を取る」よう指示をだした。

まさか強制収容所の労働力を活用してロケット開発をしていたとは知らなかった。

ナチ諜報機関や国家秘密警察による破壊行為摘発も厳しくなり、内部のスパイ活動や密告による逮捕・処刑者も増えたが、生産機数は12月618機、1月700機と増加した。

しかもきちんと実績を出しているところが面白い。

ドイツ人の中には、技術者たちを中心とする、画期的技術開発に対する純粋な技術的評価(正の部分の評価)がある一方、国家社会主義者の起こした戦争に協力し、その庇護のもとに、多数の囚人労働者の犠牲のもとに発展を遂げたという、ロケット開発ひいては宇宙開発の持つ負の部分の評価が存在していて、これは宇宙開発の両面性と呼ばれている。

物事には両面性があるが、非常に顕著な例だと思う。

ソ連がA-4についての具体的な情報に接したのは、第二次世界大戦の終息する前年1944年中ごろであった。ドイツに侵攻した連合軍のうちアメリカ軍が一番早くコーンシュタイン山に到着し、ミッテルヴェルクにあったロケット本体や主要装備品、近くの鉱山に隠されていた文書類を持ち去った。ドイツ降伏後、ノルトハウゼン周辺はソ連軍占領区域となり、ソ連は、そこでドイツ人技術者たちを使ってA-4ロケットと技術文書の復元を行った。実質的に作業が終了したのは1946年末(公式には1947年3月)で、一部ドイツ人技術者たちはソ連に連行された。

アメリカ軍が美味しいところをしっかり持って行っててさすがである。さらっと書いてあるが、ソ連もなかなかひどい。

ここでは非常に大きく、かつ重要な仕事がなされた。我々の産業は、ゼロから出発するのではなく、また、何もないところから始めるのでもなく、まず、ドイツでなされたことを勉強することから始める必要がある。我々は、自分たちの技術で始める前に、まず、ドイツの技術を再現しなければならない。これが気に入らないものがいることは知っている。君たちは、ドイツのロケットにも欠陥があるのを見つけて、自分たちのものを作りたいとの希望に燃えていることだろう。しかし、はじめはこれを禁ずる。まず最初は、これ以下のものを作らないということを立証せよ。我々の経験と歴史を引き合いに出す人に対してはこう答えようー我々は、これ(A-4)に対して完全な権利を持っている。我々は、その代償として多大の血を流したのだ。しかし、我々は、誰に対しても強制はしない。気に入らなければ他に仕事を探してもらっても一向に構わない。

こういう謙虚な姿勢はおおいに見習うべきところだろう。でも強制に関するくだりは、ドイツ人には適用されなかったらしい。

10月初め、ベリヤの片腕、内務大臣代理セロフ大将がやってきて、研究所の幹部に対し、「ソ連に連れて行って働かせれば役に立ちそうだと考えるドイツ人リストを作る」ことを指示した。そして、選ばれたドイツ人たちは本人の希望とは無関係にソ連に連れてゆくこと、火災道具は持ってゆくことを許可すること、家族を連れてゆくかどうかは本人の希望に任せること、油断させるために「お別れ」の大パーティーを開き、ドイツ人たちを酔わせること、連行のことはドイツ人たちには一切知らせないことも指示された。酔わせるまでがノルトハウゼン研究所の仕事で、連行はセロフ大将の指揮のもとで、10月22日深夜から23日早朝にかけて内務省によって決行されることとなった。

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ライヒェローデ、レーエステンから拉致されたドイツ人専門家たちは総勢200人、家族を含めると約500人であった。

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強制的に連行されてソ連に渡ったドイツ人専門家たちの最後の一人が解放されて祖国に戻ったのは7年後の1953年末であった。

戦後もいろいろとむちゃくちゃなことが行われていたのだなと思った。

スターリンは、黙って静かに行ったり来たりしていた。会議室内は緊張で張りつめてしんとなった。スターリンは歩みを止め、口から話したパイプでゆっくりと空中に弧を描きながら言った。「軍の言うことは正しい、このような性能の兵器は不要である」。コロリョフは蒼白になった。スターリンはまた歩き始め、やがて足を止めて言った。「しかし、私が思うにロケットには将来性がある。このロケットは正式採用しなければならない。そして、諸君は軍にロケット運用の経験を積ませるべきである。コロリョフ同士には、次のロケットは、わが軍の兵士たちを失望させないようにしてもらおう」。

ロケットには理屈ではなく何か引きつけるものがあるんだろうな。

科学アカデミーのロケット事業への参画は、科学者、ロケット技術者両者にとってメリットがあった。共産主義政権下では科学立国は国是であったから、科学アカデミーと結びつくことはロケット技術者たちにとっては大義名分が立つこととなった。また、「夢」とか「ロマン」とかいうはなはな抽象的で議論を呼び起こしかねない動機は、「科学」の糖衣で覆うと、極めて説得力のある動機に変貌した。一方、科学アカデミー側からみれば、この分野は未開の沃野であると同時に、極秘の国家プロジェクトに参加することはその機関の権威を上げると同時に、多額の予算を得ることができ、思想上問題ないという証ともなった。

共産主義では科学立国が国是というのはなんか新鮮。

ロケットに対して理解のあったスターリンの死去とそれにつぐスターリン批判で、今後の開発はどうなるかとロケット関係者たちは心配したが、その心配は無用であった。政治がロケットを必要としていたのである。

プロジェクトを存続させるための苦労が伝わってくる。

ホワイトハウスからのアメリカ人工衛星計画発表があってすぐ、1955年8月初め、フルニチェフ、リャビコフ、コロリョフが連盟で、共産党第一書記フルシチョフ、閣僚会議議長ブルガーニン宛にソ連人工衛星を打ち上げるべきであるとのメモを送った。マレンコフとの争いに勝ち政権をとったばかりのフルシチョフは新しもの好きであった。

この新し物好きのせいで助けられたり苦労させられたりしていろいろと面白い。

コロリョフは、PSの形状として球形に固執した。球は形状がシンプルであるうえに、表面積最小で内容積最大となる利点もあった。彼が最も気にかけていたのは球体内部の温度上昇であった。そのため、外面をピカピカに磨いて、熱吸収率を少なくすると同時に反射率を高めるようにした。こうすれば、地上からも見えるようになることも期待された。

これがサイヤ人の宇宙船そのもので非常に興味深かった。

同士諸君!本日人類の最高の知性が夢見たことが現実となった。コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーの、人類は永久に地球上にとどまることはないであろうとの予言が実現した。本日、世界初の人工衛星が地球周回軌道上に投入された。その結果として、宇宙の征服が始まった。そして、宇宙空間への道を敷いた最初の国は、我が国ソヴィエト国家である。諸君とともに、この歴史的な日を祝いたい。そして、ロケットと衛星開発に参加してくれたすべての若い専門家たち、技術者たち、設計者たちにその超人的な働きに対してお礼を言いたい。

気球からずっと読んでいくと、この辺りで胸に込み上げてくるものがある。

何事もすんなりと収まらず、一難去ってまた一難となるのがソ連という国であった。

モスクワに戻ったコロリョフは、10月10日フルシチョフの呼び出しを受け、11月7日の第40回革命記念日までに、もう一つの、しかも、同じものではなく、よりニュース性の高いスプートニクを打ち上げることを強く求められた。既に11月7日までは1ヶ月を切っていて、この要求は無理難題であったが、フルシチョフが言い出したら聞かない性格であった。

困惑したコロリョフが窮余の策として提案したのは、犬を載せたスプートニクを打ち上げることであった。これまで、ロケットで犬を打ち上げたことはあったが、すべて高度80km付近止まりで、すぐパラシュートで回収していた。しかし、コロリョフとしては、軌道上に打ち上げて長時間連続して滞在させることは、将来の有人宇宙飛行に備えての医学・生理学上のデータをとる機会となると考えたのであり、また、犬を載せるためのコンテナや生命維持装置などは製作実績があり、何とかなると思ったからである。ただし、この場合、犬を回収できる見込みはまったく立たなかった。

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まだ影も形もないスプートニクを20日間で作り上げるだけではなく、犬を載せて打ち上げ成功させることは、常識ではまったく考えられない無理・無謀な企てであるが、スプートニク本体を製作した第一専門設計局、犬のコンテナと生命維持装置を担当したセミョーン・ミハイロヴィチ・アレクセーエフ設計局、犬を準備した航空医学アカデミーのチームはこれをやってのけた。

この無茶な要求に応えるプロフェッショナルチームがすごい。

大陸間弾道弾を完成させ、二個の地球人工衛星を実現した最近のロケット技術の成果はロケットを月に送るという問題の解決を可能にするものである。

現在次の2つのオプションの実現を現実的なものとして語ることができる。

  1. 月の地球から見える表面へのうちあて。月表面に到達したとき爆発をおこさせて地球からみえるようにする。最初の1,2回は爆発が起きないかもしれないので、テレメータ装置でロケットの運動の記録を送信させて、うちあたったことの証拠とする。
  2. 月を周回させて、裏側の写真を撮り、地球に送信させる。地球への送信は地球に再びロケットが戻って近づいたときにテレメータ装置で行わせる。観測結果の地球への持ち帰りはさらに難しい課題で、その解決は将来考えられることになるであろう。

次から次へとゲームのようにミッションが出てきて、アメリカとの競争の激しさを感じさせられた。

1958年1月ころまとめあげられた有人スプートニク構想は、先端は円錐状、底部は球面の一部で揚抗比は最大0.5、帰還時は地表数km上空まで降下したときに飛行士をカタパルトで打ち出し、スプートニクは回収せず地上に落下させるというものであった。しかしこの構想は、1958年4月に行われた会議の席上、航空医学の専門家から、人間の耐えうる加速度は10Gまでで、その案では飛行士にかかる加速度が大きすぎるとの発言があって再考することになった。

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この計画(注:有人スプートニク)の陰の支援者はアメリカであった。アメリカが既に偵察衛星を打ち上げてフィルムの回収をしていたが、ソ連側には回収の技術はなかった。回収は人間宇宙船にも共通の技術である。1959年5月22日に出された政令は、元来撮影フィルム回収を行う偵察衛星開発が目的であったが、コロリョフはここに、「人間の飛行のためのスプートニクも……」という文言を忍び込ませ、フルシチョフは何も言わずに書名した。フルシチョフは政令作成者よりも、人間が飛行することの意義をわかっていたのだ。フルシチョフは何事によらず新しいことが好きだった。

でも、競争があったからここまで早く物事が進捗したのは言うまでもない。

ユーリー(ガガーリン)は、生まれついての勇気、分析的な知力、驚異的な勤勉さを兼ね備えている。私が思うに、しかるべき教育を受けていたら、我が国の高名な科学者たちの仲間入りしたであろう。

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ガガーリンの歩んできた道と経歴には象徴的なところがある。それはわが国の歩みの分身である。農民の出自、ファシストの占領下でつらい日々を生き抜いた。職業学校の生徒であった。労働者、学生、飛行クラブ、そして飛行機操縦士。何千という同年代者の歩んできた道だ

このガガーリンが初飛行をこのように述べている。

荷重がなくなったとき大気のヒューヒューという音が聞こえてきた。分離したとき、地中海の上を通っていたので、軌道は予定通りであると推測できた。高度7000mでハッチNo.1の蓋が飛んだ。衝撃があった。静かに頭を上に持ち上げたときカタパルトが働いて座席とともに降下モジュールから飛び出した。降下を始めたときにヴォルガ河が目に入った。カタパルトはヴォルガ河岸上空で作動した。風向きは、私をヴォルガのうえに引っ張っており、水上に着水しそうだった。メインのパラシュートが開き、座席が離れていった。どこに着陸するか見ることはできなかった。飛行用宇宙服を着ていると下を見ることができなかったのだ。雲を見ながら降下していった。そのとき、補助パラシュートが開いた。ヴォルガの河岸からさほど離れていないところ、私の着地点から4kmばかりのところに、白いパラシュートとその傍らに黒く焼け焦げた球体が見えた。

よく耕された、非常に柔らかな畑地に着地したので、足が地面に着いたのがわからないほどだった。

 続いて、3人が乗り込むヴォスホートを打ち上げて、フルシチョフが失脚する辺りまでこの本に書かれている。長い年月をかけて、多くの人の手を経て、技術が進歩してきたということがよくわかった。様々な要因により加速したり減速したりしながら、一歩ずつ進んできた歴史を振り返ると、近道なんてないという当たり前のことに気付かされる。そして後の時代に生きる者のみが全体を俯瞰することができる。今の自分は何かの歴史の一部となっているんだろうか。それはきっと自分次第なのだろう。

それにしてもこれだけたくさんの失敗を見せられると、新しいことには失敗がつきものだという当たり前のことが嫌でもわかる。失敗したらまたチャレンジすればいい。そんなことを思わせてくれる本だった。

 

ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで

ロシア宇宙開発史: 気球からヴォストークまで