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文学評論(上)

カツラの話が面白いと以前書いた本。夏目漱石が大学で行った講義をまとめた本である。読み終えたので全体を通した感想を書いておこう。上巻の構成はこんな感じ。

  • 序言
  • 十八世紀の状況一般
  • アヂソン及びスチールと常識文学

やはり十八世紀の状況一般のところが特に面白かった。当たり前という感覚は時代とともに変わるということがよくわかる。とりわけ「文学者の地位」という項目が非常に興味深い。
女王アンの時代にはそれぞれうまく立ち回って、衣食に不自由しないくらいにはやっていた文学者。ジョージ一世の時代となり、サー・ロバート・ウォルポールの時代になると政府とは縁が切れてしまった。また当時「読書界」なる者は成立しておらず、書籍の販路も知れたものだったものだったとのこと。

一方では政府に見放され、一方では読者を有っていない彼らは、唯一の策として個人的保護の下に麵麭を得るの途を講じ出したのである。詰り国家的保護が衰えてその余習がまだ抜けないからして、何らかの保護を求めたくなる。やむをえんから貴族の金持で多少文学の好きなものを捕えて自分の保護者にしようという考に流れ込んだのである。

この具体的なプロセスが面白い。

しかし彼らの保護を求めるという意味は、つまり自己の作を出版するについて予約者になってくれろと依頼するのである。予約者になるといっても、今日本で流行るような申込みではない。自分の著書を出版するから何部だけ買ってくれと嘆願するのである。つまり現今の予約出版は本屋が新聞に広告するだけであるが、この時分には著者自身が貴族の門に叩頭して憐を乞うのだからその趣は大変違う。

著者が貴族に飛び込み営業をかけている時代があったわけだ。

多数の著述家は前の如く犬のように頭を下げて貴族の家に行く。見ず知らずの人の家に行くのだから先ず中間とか玄関番とかいう連中に賄賂を使う。そうしてその玄関先に待っていて、主人が外出の際車に乗るため玄関に出て来るのを捕まえるのである。捕えた処で御辞儀をしたり揉手をしたりして、恐る恐る予約を頼むのである。

市場が存在しなかったら、生活のためにここまでしないといけなかったんだな。

それからこの時分には御来駕の上御新作の朗読を乞うなどと招待を受ける事がある。招待する人は無論金持で、招待される者はむろん貧詩人である。だから招待というのは名のみで実は命令である。それだから彼らが出席する時は、あらゆる軽蔑や嘲弄や冷かしや、無礼に甘んぜねばならん。それでも餓死するよりはよいと見えて彼らはのそのそと出掛けて行くのである。考えると随分気の毒な境遇に居たものである。

音楽で食べていくのが大変だが、職業作家として食べていくのも大変なわけで、芸術で食べていく事の大変さが非常にリアルに伝わってくる。

書物は大小にかかわらず、題目を問わず、殆んど持っている家はなかった。祈禱書とか日常使用する宗教上の書物は特別だが、外のものになると金持とか、学者とかが持っているばかりである。しかもこれらの金持は今日ならば外聞の悪いと思われる位書物に無頓著であった。

これが1759年頃の話というのが驚いた。今当たり前の事というのは、別にずっと続いて来たわけじゃないということがよくわかる。グーテンベルク活版印刷を考案したのが1445年だとすると、300年経っても宗教以外ではろくに普及していなかったということか。書籍という文化の歴史の浅さがよくわかる。
文学者が貴族をパトロンにしようとするのは、起業家が資金調達をする構図によく似ている。広く浅くお金を集める手段がなかったら、たくさんお金を持っている人を口説き落としてお金を確保するしかない。むしろそっちの方が伝統的な手法なんだろうなと思ったりした。
やりたいことをするために、顧客を特定し(貴族を探す)、顧客に接触し(門番と仲良くなる)、自分を売り込み、財布を開かせ、顧客に満足してもらって次につなげるというのは、いつの時代も変わらないものだな。何が同じで何が違うのかを考えながら読むと、新しい視点が得られるような気がする。

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