物語 シンガポールの歴史 前編

シンガポールについて書かれた本はいくつかあるけれども、この本は非常に詳細でありながらバランスよく書かれており、非常に面白くためになった。シンガポールのことがよくわかる。シンガポール歴史散策のお供にも良さそうだ。

マレーシアの歴史書によると、この島はかつてスマトラ島南部の港町パレンバンを拠点にするシュリービジャヤ王国の領土に属し、「テマセク」(海の街)と呼ばれていたが、その後、「シンガプーラ」(シンガポール、ライオンの街)と呼ばれるようになった。

ちなみのこのテマセクという名前は、現在シンガポール政府が所有する投資会社の名前になっている。

ヨーロッパ諸国は十八世紀頃から、アジアの国々を順次、植民地化したが、最大のターゲットは歴史文化大国で、かつ当時における世界の経済大国であるインドと中国であった。

こういうのをみると、昔も今もそんなに変わってないのだなと思った。

当時はインドと中国間のノンストップ航海ができず、途中で水や食料を補給する寄港地を必要とした。それには、マラッカが最適だったが、マラッカは1511年にポルトガルが占領し、その後、1641年にイギリスのライバルであるオランダの手に落ちて、その支配・影響下にあった。
そのためイギリス東インド会社は、マラッカよりも南の地にイギリス船舶の寄港地を確保することをめざす。この重要任務を負ったのが、イギリス東インド会社職員で、当時スマトラ島のイギリス植民地ベンクーレン準知事のスタンフォード・ラッフルズである。

ラッフルズホテルが有名だが、ラッフルズ病院もあるし、いろんなところでラッフルズの名前が今のシンガポールでは使われている。

ラッフルズは、シンガポールの地理的優位性を生かし、東南アジアの貿易拠点として進行する政策を進め、他の東南アジアの支配者が入港税を徴収していたのに対して、シンガポールをどの国の船舶でも無税で利用できる自由港とする。

社会科でシンガポールと言えば中継貿易と習った気がするが、今も昔もそれは相変わらずなんだろう。扱う品物が変わっても、やり方は基本的に同じみたいな感じ。

基本コンセプトは、シンガポール川河口付近一帯を市街地とし、中心部にイギリス植民地政府機関とヨーロッパ居住地を配置し、その周囲をアジア人移民の居住地にするというものである。このプランに基づいて、シンガポール川河口を少し遡った北岸のフォートカニングの小高い丘に総督官邸を建て(のちに、内陸部の開発が進むとオーチャード通りに移転した)、その周りに政府機関を建設した。そして、政府機関の付近には、聖アンドリュース教会、イギリス人クラブ、パダンと呼ばれる緑の芝生が美しい大広場が作られ、ヨーロッパ人居住地や商業地とされた。現在、フォート・カニングは都心部の公園に、シンガポール川北岸には国会議事堂、最高裁判所、シティー・ホールなどの政府関連機関の建物が並び、当時の雰囲気をうかがうことができる。

今の職場がまさにこのエリアなので、いろいろと感慨深い。たかだか200年の歴史とはいえ、そこには背景があって人の思想がある。シンガポールの古い地図を見てみたくなった。

シンガポール川北岸のヨーロッパ人居住地の北側も移民の居住地とされ、アラブ人、マレー人、インドネシア・スラベシ島出身のブギス人の順番で割り振られ、さらには、アラブ人街の西の一角もインド人居住地とされた。

ブギスって変な名前だと思ったらインドネシアから来たのか。

移民者が増えると市街地が拡大し、すでに1850年代に、町の中心部から少し内陸部に入った果樹園一帯が開発されて、ヨーロッパ人の新居住地となっていた。ここが、現在シンガポール最大の目抜き通りのオーチャード通りである。

オーチャードってなんで果樹園なんだろうと思っていたら、本当に果樹園だったのか。

シンガポールの都心部の官庁街から少し東に行ったところに、ミドル・ロードがある。現在は都市再開発で戦前の古い建物が取り壊されて、緑豊かな公園や商業ビル、それに国立図書館などが建っているが、ここが戦前期に日本人街と呼ばれた通りである。ミドル・ロードの両側には日本人経営の売春宿が何件も軒を連ね、からゆきさんの生活を取り巻くかたちで、呉服屋、雑貨屋、写真館、髪結屋、旅館、医院など日本人経営の店が立ち並んでいたという。

ミドル・ロードはよく通るけど、そんな面影は全然ない。

シンガポール市街地からやや北東に位置する住宅街に囲まれて、1891年に創られた日本人墓地があり、その一角にからゆきさんの簡素な墓がある。

この墓地には近いうちに行ってみたい。

1900年に医師のリム・ブーンケンを指導者に、イギリスへの忠誠心を示すことを目的に海峡華英協会が創られ、イギリスへの関心の助長や、住民の社会的道徳的福祉などの問題が協議された。

MRTの駅名でブーンケンってのがあるんだけど、これが人名だったとは知らなかった。

1920年代に、シンガポール島北岸に戦艦や駆逐艦などを常備できる巨大海軍基地の建設が始まり、38年に造船ドックを含む最新設備を備えた軍港が完成した。シンガポール等北部の三カ所には飛行場も建設された。イギリスは、日本がシンガポール島南岸から攻撃してくると予想し、セントサ島など南部に巨大な大砲も配置している。

当時のシンガポールがそんな要塞になっていたとは知らなかった。

イギリスの予想に反して、日本は南からではなく北からシンガポールを攻撃した。

これはけっこう有名な話。

シンガポール島のほぼ中央に位置する唯一の高地で、イギリス軍の弾薬や食料の貯蔵所があったブキティマ(丘)の攻防をめぐって激戦が展開された末、2月14日に日本軍が市街地を包囲すると、食料や弾丸が尽きたイギリス軍は翌15日に無条件降伏した。

今は猿に占領された自然公園という感じだけど、イギリス軍の貯蔵所ってどこにあったんだろう。

日本軍は1930年代に中国を攻撃した際、中国側の抵抗に遭い苦戦を強いられたが、その一因はシンガポール等の移民中国人の支援活動にあったと考えており、反日主義者、共産主義者、イギリス協力者などを見つけ出し、処罰しようとしたのである。

結局のところ、日本は中国と戦争をしていたから、中華系の人を徹底的に弾圧したんだろうな。

住民を苦しめたもう一つは、5000万海峡ドルの強制献金である。

これは知らなかった。

日本化政策を採った目的は、シンガポールがイギリス支配の下で欧化されていたので、それを除去して、新たに日本文化でシンガポールを作り替え、東アジアの植民地と東南アジア・太平洋地域の占領地からなる「大東亜共栄圏」の日本文化の拠点にしようと目論んだからだった。イギリスはシンガポールを東南アジアにおける貿易と軍事拠点にしようとしたが、日本は文化拠点にしようとしたのである。
日本化政策のシンボルとも言えるのが、1942年末に島のほぼ中央部に位置するマックリッチー貯水池脇に、伊勢神宮を模して建てられた昭南神社であった。神社には日本人が参拝しただけでなく、シンガポール住民(イスラーム教徒のマレー人など)も参拝を強いられた。

なんという余計なお世話なんだろうと思った。そもそも戦争の半分くらいは余計なお世話で成り立っている気がしないでもない。でもこの昭南神社は一度見てみたかったな。行ったことあるけど、今はこんな感じ。
http://el.jibun.atmarkit.co.jp/yamayattyann/2011/06/post-bc64.html
政治と宗教が結びついていなかったら破壊することはないと思うが、国家神道にそれを求めても無駄か。

1942年7月に、混乱に乗じて軍用倉庫に盗みに入った住民8人を軍事法廷で死刑に処した後、シンガポールで最も人通りの多いオーチャード通りに面したキャセイビル前に彼らの首を並べて、日本軍への抵抗や不服従の見せしめにしたことである。

キャセイビルは日本軍がプロパガンダを流していた場所だったと思う。古い建物には歴史がある。そんなことを思った。

簡明に言えば、中国人は徹底的に抑圧し、マレー人とインド人を優遇するという民族による使い分けを行なった。マレー人を優遇したのは、日本軍がマレーシアを侵攻した際に協力的だったからである。

そんな歴史があったとは知らなかった。

日本の敗戦とともに、日本支配の象徴だった昭南神社は日本人の手で爆破され、学校も華語教育学校や英語教育学校が復活して、日本占領期の痕跡は、表面上は消えた。

1962年に自治政府が公共住宅建設のために、シンガポールの東海岸一帯の土地を整地すると、大量の白骨死体が出土する。これは、日本が占領直後に行なった中国人粛正の犠牲者の遺骨で、激怒した華人住民の間で日本に賠償を求める運動が起こった。

イーストコーストのどの辺だろう。

長期間に及んだ交渉の末に、1967年9月、日本が占領時に中国人住民に課した強制献金額と同じ5000万シンガポールドルを、無償と有償の協力金として支払うことで一応の決着をみることになる。

サンフランシスコ講和条約でイギリスが権利を放棄したので賠償する法的義務はなかったようだが、このようにきちんと交渉してそれなりの落とし所を見つけておいてくれたのは、後の時代に生きるものとして非常にありがたいと思った。今こうして自分がのほほんとしていられるのも、当時の人がこうして話し合って落とし所を見つけてくれたのと、現在この地の人々が寛容で合理的で前向きであるおかげである。それを肝に銘じておきたい。

日本占領を、身をもって体験したリー・クアンユーは、次のように述懐している。
『私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利を持っていないことを確信した。われわれは、自分の国は自分たちで統治し、自尊心を持った国として子どもたちを育てることを固く決心したのである。』

こうしてシンガポール独立時代へと続いていく。

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