物語 シンガポールの歴史 中編

もう前回何を書いたか覚えてないが、続きを書いていく。

東南アジア各地で独立運動が盛り上がるなかで、1945年9月5日にイギリス軍や植民地政府関係者がシンガポールの土を踏むと、住民はイギリス国旗を振って歓迎する。

これがシンガポールのちょっと変わったところ。喜んでイギリスの植民地になっている。

1955年9月に独立して「リー&リー法律事務所」を開いた。1959年にリーが選挙に出馬するために事務所を辞めた後は、夫人とリーの弟などが事務所を切り回し、一族経営でスタートした小さな法律事務所は、現在はシンガポール最大の法律事務所になっている。

これは知らなかった。リーなんて名前はどこにでもあると思っていたら関係あったのか。

華人労働者などが活発な反英活動を行うなか、イギリス植民地政府の取り締まりや弾圧を受けて裁判にかけられると、彼らを法廷で弁護したのが、新進気鋭の弁舌が爽やかで鋭いリーだったからである。これを契機に二つのグループが接近し、反イギリスという目標で一致して手を握る。

イギリス帰りのリー・クアンユーがこういうふうに華人労働者の支持を集めていくというのは興味深い。

1954年11月21日、シンガポール都心部のビクトリア・メモリアル・ホールに1500人の労働組合関係者、英語教育や華語教育知識人が参集して、人民行動党の結党大会が開催

このエリアはいませっせとリノベーションしている。今年中にリノベーションがおわるみたい。

国民に仕事を提供するために労働集約型産業も振興されたが、近隣諸国との競合を避けるために、造船業や石油精製業など重化学工業の振興に重点が置かれ、その際に重化学工業を担える国内企業がなかったため、外国企業を軸にする戦略が採られた。そして、外国企業向けの工業用地として、シンガポール島西部のジュロンの広大な沼地を埋め立てジュロン工業地区が造成された。

今もまだこれがたくさんあるってことは、この戦略が成功したということなんだろう。過去と現在を比べてみるのは非常に面白い。

選挙で人民行動党は、政府の権限をフルに活用して社会主義戦線を徹底的に弾圧した。社会主義戦線の最大の支持基盤である労働組合の銀行口座の凍結命令を出し、社会主義戦線の選挙資金を押さえ込んだのは、その一例である。

やり方がえげつないな。

最終段階で、石油収益を中央政府に吸い上げられることを懸念したブルネイが合併構想から離脱する。1963年9月16日、マラヤ、シンガポール、サバ、サラワクの4つの地域が合体してマレーシア連邦が誕生する。

ボルネオ北部の3つはよく似た雰囲気なので、なんでブルネイが違うのかなと思ったらそんな歴史的経緯があったのか。

ラーマン首相は、1965年8月9日にシンガポール追放を国民に告げた議会演説のなかで、追放を決断した理由として、人民行動党のマレー半島部への政治進出、経済対立、それにマレーシア連帯会議の反中央政府運動を挙げた。

独立記念日というと何やら勇ましい雰囲気があるけど、全然そんなことはなかったみたい。切り離されることも独立というのだなと思った。

1965年8月9日、リー・クアンユーはパダン(芝生の大広場)の北側に建つ、コロニアル・スタイルのシティー・ホールの階段状でシンガポールの独立宣言を読み上げ、「シンガポールは永久に、自由と正義の理念に基づく独立の民主的主権国家であり、常に国民の福祉と幸福を希求し、より公正で平等な社会をめざす」ことを宣言した。

このパダンの真ん中を歩いて遠くに高層ビルを眺めながら会社に行くのはなかなか心地よいものがある。夕方に通るとサッカーをしている人たちを良く見かける。48年でよくここまで来たものだと思う。

人民行動党は、独立後のシンガポールに必要なことは、経済活動を通じて生存をはかることであり、政府が決めたことを国民が一糸乱れず実行する体制が不可欠であると唱えた。

他に選択肢がなかったんだろうけれども、非常に明確で迷いがない。

人民行動党の一党支配体制の構築は、社会主義戦線を背後で支えていて、華人労働者(労働組合)、華語学校生(学生運動)、華人企業家(企業家団体)、華字新聞(マスメディア)などを、管理すればよかった。
共産党系グループの労働組合を強制的に解散させ、替わりに政府主導で全国労働組合評議会(NTUC)を創り、残った組合を加盟させるという物で、全国労働組合評議会書記長には人民行動党の有力指導者が任命されていた。

NTUCが労組だったとは知らなかった。

次に華語学校の学生運動に対しては、マレーシア時代の1964年8月に中央政府が導入した、マレーシア(とシンガポール)の大学に入学を希望する者は、マレーシアの安全を損なう者(たとえば共産主義者)ではないとの証明を、政府から取得することを義務づけた「適性証明書制度」が利用された。
さらに華人企業家に対しては、すでに1963年の州議会選挙の際に、社会主義戦線候補者に資金援助をしたとの理由で、有力華人企業家タン・ラークサイの市民権(国籍)を剥奪し、分離後も、これを見せしめに華人企業家の政治関与を厳しく制限していった。

これで学生運動も消せる。よく考えられている。

そして、華字新聞に対しては1971年に、華語教育の衰退を懸念し、政府の英語化政策を非難する記事を掲載した『南洋商報』の編集者三人を、共産主義思想を宣伝し、華人ショービニズムを煽ったとして国内治安法で逮捕した。これ以外にも、英字新聞二紙を、外国(香港)の共産主義者から資金援助を得たなどの理由で廃刊に追い込んだ。
・・・
人民行動党は、開発途上国におけるマスメディアの役割は、政府と違った意見や見方を国民に伝えるのではなく、政府の方針や政策を国民に伝えるのが任務であると考えているからである。
・・・
外国企業を誘致するには、シンガポール政府が公平で効率的であるという国際社会のイメージが大切だと考え、それを損なう言動を容認しないことにある。

メディアコントロールはこういうふうに行われたんだな。ここまで徹底していたとは知らなかった。

選挙権は21歳以上の国民が持つが、普通選挙権は1959年に導入されたもので、併せて投票義務制も導入された。そのため、病気や外国旅行などの正当な理由なく、投票を怠った国民は次回以降の選挙権を失うなど、社会的な不利益を被る(ただし、10シンガポールドル支払えば選挙権を回復できる)。これもあり毎回の投票率は、98%前後と高い。

投票義務というとなんか罰金とか発生しそうなイメージがあるけど、実際には選挙権を失うだけ。投票しない人が選挙権を失えば、投票率が上がるのは当たり前だろうな。

ジャヤンレトナムは、ゴー時代になると復権するが、裁判で下された罰金や賠償金を支払えなかったため、2001年に破産宣告を受け、選挙の立候補資格を失った。政府を厳しく追及する野党政治家に対して名誉毀損や不正行為を理由とする訴訟を起こし、有罪判決により合法的に排除するのは、弁護士政治家リーの得意とする手法だった。

これもかなりえげつない。野党というのは、唾棄すべき敵なんだろうな。

世界の国々の主要政党と比べた場合、大きな特徴の一つは、自由主義や民主主義や共産主義など、一切の政治イデオロギーや政治理念を持たないこと、その替わりに現実的で政策立案・実行能力などのプラグマティズムの原理に徹していることである。あえて言えば、プラグマティズムが人民行動党のイデオロギーになる。

たぶんこのプラグマティズムを好ましく思っているから、今自分はシンガポールにいるんだろうな。

また、ヨーロッパの小国スイスが自国を守るために国民総武装していることに倣い、1967年3月に、「ナショナル・サービス」と呼ばれる国民徴兵制を導入した。これは、18歳以上の男子国民全員に服務内容により2年〜2年半の期間、軍事訓練を受けさせ、その後も50歳まで予備役に編入して、毎年最長で40日間、軍事訓練に参加することを義務付けたものである。

2年行ったら終わりじゃなくて、その後も毎年体力測定に行ったり、何週間か訓練に行ったりしている。あまり長いと同僚のカバーが大変。

ASEANは、当初は東南アジア反共五ヶ国の、いわば軍事同盟として出発したが、1976年のベトナム統一後は、地域諸国の経済開発のための協力機構、それに地域安定のための地域組織へと転換した。

こういう経緯は知らなかった。ベネルクス三国が自国の存在感を維持するためにEUを形成していったのにどことなく似ている。

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