宮大工と歩く千年の古寺

宮大工というのは、国語の教科書で西岡常一という名前を見かけたくらいで全然知らないのだが、なんとなく面白そうだと思って買った本。読んだ後、困ったことにこれらの寺に行きたくなってしまった。しばらく日本に行く予定はないのだが。

私は宮大工です。縁あってこの世界に入って50年、国宝や重要文化財建造物の保存修理にずっと携わってきました。私が保存修理の仕事を通じて驚かされてきた先人の知恵や、宮大工の技、仕事について、本を二冊上梓いたしましたが、この本では、私なりの「古寺巡りの旅」を語らせていただきたいと思います。

寺をぼんやりと見ていてもよくわからないが、こういう長年実際に保存修理をしてきた人の言葉には非常に重みがある。そして非常にわかりやすく解説されていた。

日本の伝統的な木造建築の美しさ、技術の高さはいろいろなところに見て取ることができますが、屋根の反りこそ、美と技術を象徴するものであり、昔の大工が精魂を傾けたのも、いかに屋根を美しく見せるか、中でも、軒の反りをいかに美しく造るかということでした。

屋根の反りをそんなに考えたことはないが、たしかにあれは全体の印象を決めるものだ。

ガチガチに固定するから強くなるのではない。組み合わせるだけにして、少し動く余地を残しておくから強くなる。それが斗と肘木の考え方です。しかも、それをすぐれた装飾にしてしまった。そこにも昔の大工の知恵があります。

柳のようにしなる仕掛けはいろいろな部分にあるみたい。

台風も塔には大敵になることがあります。地震のように上下とか左右とか、あるリズムを持っていろいろな方向から力がかかるような時は、かなりの揺れでも耐えることができるのですが、台風の時にはひとつの方向から、長い時間、力がかかる状態が続くことがあります。五重塔や三重塔はこういう力には案外強くないものなのです。

これは知らなかった。万能というわけではないんだな。

模型の材料の木はすべてヒノキを使いました。やはり、日本の伝統的な木造建築ではヒノキが一番です。木肌の美しさ、加工のしやすさ、耐久性、どれを取ってもヒノキにかなうものはありません。そして、たとえば、垂木ならば、真っ直ぐなものは真っ直ぐに、反りをつけるところは、少し厚みのある板を削って、実物と同じような反りをつけました。

ここまで違いがあるものだとは。素材から決まってくるんだな。

自分の好きなお堂はここ、塔ならこのお寺というふうに言えるようになれば、あまり好みでない建物の見方もまた違ってきます。漠然と見ていたのが、「ああ、このお堂は、ここがこうなっていれば、自分はもっと好きになれるのだろうな」とより深く見ることができるようになるでしょうし、さらに進んで、「でも、どうして、こういう建物にしたのだろう。何か理由があるはずだ」と考えるようになれば、お寺のお話も聞きたくなるでしょうし、関連する本も読みたくなるでしょう。

解像度が高くなってくれば、いろんな楽しみ方ができる。

ところで、心柱が他の部材と触れずに塔の中心を貫いていることが、塔の「柔構造」の大事なポイントです。地震や台風で塔が揺れるときには、心柱に各重が触れていないからこそ、各重がそれぞれ別々に揺れます。しかし、心柱が通っているからこそ、ある程度のところで揺れが抑えられる。

しなる仕掛けはいろんなとこにあるみたい。本当によくできていると思った。

柱を見るポイントとしては、表面に見える「目」もあります。一番いいのは四つの面のどこから見ても「柾目」になっている柱です。こういうのを「四方柾」と言います。柾目というのは、上から下まで年輪の線が平行に走っていることです。これに対して、波のような模様が見えるのを「板目」と言います。

今後は柱を見るときも楽しめそう。

そして、故西岡常一棟梁が残した言葉を思い出してしまいます。正確ではないかもしれませんが、「1000年たった木を使えば、1000年もつ」という言葉です。木の生命がそのまま建物の生命になるというわけです。

やはり見ている期間が違う。1000年先を考えて何か自分にできることってあるのかなとふと思った。

親方は誰でもなれます。お金を出して人を雇えば親方です。だから、そんなに難しいことではない。ところが棟梁となると、それだけではすまない。施主ときちんと話ができて、下の者には仕事を教えることができる。そういう人間でないと棟梁はつとまらないのです。お金があれば棟梁になれるというものではない。

棟梁って軽々しいものではないんだな。

とくに、伝統的な木造建築の世界では、茶室もあれば、床の間もありますから、建物がどんな使い方をされるのか、それを知っていると知っていないのとでは、仕事の中身も違ってくるというものです。

使い方を知っているかどうかで、仕事が違ってくるというのはいろんな仕事に当てはまりそう。

瀬戸内海沿岸の街や港は、中世になると、ますます力を付け、奈良で腕を磨いた大工たちに声をかけるようになり、その大工たちが中心になって、奈良とは違った、伸びやかで創意工夫にあふれる数々の建造物を残したのです。

奈良、京都、滋賀の寺が紹介されていたが、最後に出てきたのが瀬戸内海。特に尾道。こういう視点で見たことはなかったので、行ってみたくなった。

そこへ、大鋸が出現したわけです。このノコギリなら、木の目がどう通っていようと、真っすぐに木を切ることができます。小さな木からでも柱に使えるような部材が取れるのです。しかし、便利さの一方で木の素性は悪くなる。目の通りなどに関係なく、どんどん切っていってしまうから、目を生かせないのです。

効率が上がるけれども、素材の良さが使えなくなる。なんとなく人材も似たようなものだと思った。個性を殺した方が短期的に便利だけど、長期的に見ればいいことなど何もない。

こうしたほうが手間はかかるが、美しくて丈夫な建物ができるとわかっていても、頭の中のもう一方には金儲けがあるから、そんな立派なことばかり言っていられないということになる。しかし、職人は金儲けに走ったら終わりです。痩せ我慢しなくてはならないところは、歯を食いしばっても痩せ我慢をしないといけない。

これはなかなか悩ましいところ。でも仕事をする上で、譲れない一線というのはあってしかるべき。

有名な話があります。薬師寺の西塔が再建された時(昭和58年のことです)、建築基準法では許可できないということになって、関係者は頭をかかえた。しかし、そのお隣に建っている東塔は1000年以上も前から建っている。それなら、建築基準法はともかくとして、東塔と同じように造るのならいいだろうということになって、やっと再建が許可されたそうです。

この話は面白いな。法律が技術に追いついてないというか、法律が過去に追いついてない。

当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。

これはなかなか面白い事例だな。三重塔で今も残っているというのがまたいい。

古寺をめぐる旅は、遠い時代に、この日本列島に生きていた日本人の心に出会う旅でもあると思います。お寺や神社の佇まい、また、建物の姿の中に、遠い時代の日本人が生きているのです。柱や垂木の削り跡、そして、空に向かって美しい線を描いている軒の反り。その一つひとつが日本人の貴重な財産なのです。

単に昔は良かったとか、日本人らしくとか、そういう馬鹿の一つ覚えみたいな話ではない。丁寧な仕事をしようとか、きちんと自分の頭を使って良い物を作ろうとか、後世に残るものを長期的な視点で作るとか、そういう話である。それはとても大切なことだし、きっと普遍的なことだと思う。

宮大工と歩く千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技 (祥伝社黄金文庫)

宮大工と歩く千年の古寺―ここだけは見ておきたい古建築の美と技 (祥伝社黄金文庫)