アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ

けっこう前から本屋で見ていて気になっていた本。

それが、”アンティキテラの機械”である。現在、その破片には少なくとも30個の歯車がついており、残存する部分の表面にぎっしりと細かな門司が刻まれていることが確認されている。

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この機械はなにをするためのものなのか。いったい誰がこれを作り上げたのか。そしてこれほど高度な技術が生まれながら、なぜこれほど長いあいだ歴史の中で埋もれていたのか。

ギリシャの島でこの”アンティキテラの機械”を海底から発見したダイバーの話から始まる。海綿獲りの歴史では潜水服や潜水病についても詳しく述べている。

ダイバーが政府と交渉し、本格的な回収作業に入り、沈没船から彫像や美術品などをダイバーが丁寧に大量に引き上げた。

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すばらしい成功だった。沈没船を考古学的に調査するという初の試みが、誰も予想しなかった宝をもたらしたのだ。だが、仕事内容は現在の考古学者が実践するものとは、かなり違っていた。発見物を沈没船との関係で調べたり、船自体や船上での日常について調べたりする試みは、まったくなされなかった。純粋に回収作業のみだった。

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謎めいたアンティキテラの歯車は、発見されるまで何か月ものあいだ、アテネ国立考古学博物館の庭の木箱に入れられて、誰の目にも止まらず手入れもされないまま、文字通り自分を浸食しつづけていた。

このように日の目を見ないことはよくあること見たいな気がした。

歯車の多さと作りの精密さ、そしてメモリや針のようなもの、説明書きと思われる文字などがあるところから、スタイスはとっさにこの物体を計測や計算に使われた機械であろうと考えた。

だが、だがそれはありえないことだった。彼の手の中にあるむしばまれた物体の時代は2000年前のはずだが、かつて古代の遺物としてこのような物が見つかった例はない。古代ギリシア人は(そして同時代のいかなる民族も)、複雑な科学的道具をもっていたと考えられておらず、そもそも科学と言えるようなものは発達していなかったというのが、多くの学者の見解である。そして時計の仕掛が発明されたのは中世ヨーロッパで、そう、”時計”が出現したときだった。つまり、1000年以上あとのことなのだ。

いわゆるオーパーツっぽい空気になってくるが、本書は淡々と歯車の歴史を振り返る。

スヴォロノスとレディアディスが黄道十二宮の目盛を発見したことから、アンティキテラの機械が天文学と関連していることは間違いないと思われた。だが、実物は当時知られていたほかのアストロラーベと大きく異なっていた。第一に、アストロラーベは四角ではないし、木の箱にも入っていない。もっと重要なちがいは、アストロラーベには目盛や針がついているものの、歯車を使う必要がまったくなかった点である。

彼はこの機械を、天体運行儀ではないかと推測した。把手を回すと、大きさの異なる歯車がその運動を当時知られていた惑星―水星、金星、火星、木星土星―の運行速度に変える。そして地球から見える惑星の位置を一日、一週間、一か月ごとに示して見せる装置である。

いろんな人が知恵を絞って謎に取り組んでいるのを読むのは面白い。

だが、歯車や文字を仔細に調べることが、謎を解明する唯一の方法だったわけではない。沈没船からこの機械が発見されたあと、考古学者は一緒に引き揚げられた積荷のほうも調べた。調査をすれば、この船が航海していた年代や荷物が積み込まれた場所、そして当時の時代背景についてかなりヒントがえられるだろう。そこからアンティキテラの機械そのものの起源や、最後の航海にでた経緯などについて、推し測ることもできそうだ。

様々な角度から謎に取り組んでいる。

木片は、この新しい測定法を実践できる世界で数少ない専門家の一人、エリザベス・ラルフのもとに送られた。彼女はシカゴ大学で測定法の発明者、”ワイルド・ビル”ことウィラード・リビーのもとで学んだあと、1951年にペンシルヴェニア大学に移り、そこで物理学棟の地下にアメリカ第二の放射性炭素年代測定法研究所を立ち上げたのだ。

少しずつ新しい技術が使えるようになって、使える手が増える。

アンティキテラの沈没船を、何世紀も前の文献に登場する船と重ねあわせる試みは魅力的だが、一致する可能性は低い。当時は数えきれないほどの船がそのあたりで遭難し、大半が記録されず、今なお知られないままに終わっている。

現実はそんなもんなんだろうな。いきなりビンゴ!とか言って完全にマッチした資料とか見つかるわけがない。

考古学者にとって硬貨は、遺跡の年代を知る上で理想の品だ。発行者の刻印が押してあり、長期にわたって流通することがないからだ。

こういう発想はなかった。

それにしても、いったいこれはなにを計算する機械なのか。どういう目的で作られ、どのようにして使うのか。ヴァージニア・グレースとその仲間たちが、回収された壷と皿を精査するかたわら、デレク・デ・ソーラ・プライスというイギリスの科学者が、機械そのものの解明に乗り出した。それまでアンティキテラの機械に取り組んだ誰もが最終的に行き詰まったのは、肉弾では、破片の表にかろうじて見えるこまごまとした部分しか調べられないためだった。だがプライスは進歩したX線技術を使い、その下に隠れているものに光をあてたのだ。

このプライスさん。真打ち登場といった感じ。

シンガポールは住みやすく異国情緒にあふれ、プライスは東洋文化とその歴史に惹かれた。そしてこの地で彼は、科学の歴史に目を開かされた。ラッフルズ大学には「王立協会学術論文誌」が全巻揃っていた。この機関誌の発行元である王立協会はイギリスで最も権威ある科学学会で、ハンフリー・デイヴィー、アイザック・ニュートン、ロバート・フックなど、錚々たる学者が会員に名を連ねている。そのころ大学図書館はまだ建築中だったので、プライスは、機会を逃さずその美しい革張りの論文集を我が家に持ち帰った―「大事な本を守るための保護拘留さ」と、彼は冗談を飛ばした。独学はすでにお手のものだったプライスは、これを寝る前の本がわりにし、1665年の巻から読みはじめた。そして論文誌のページ数から、世代を追うごとに知識が蓄積されていく、ものごとにかんする事実の解明が進んでいく様子を実感した。

シンガポールで大学の先生をやっていたそうだ。

「これが本物だとすれば、アンティキテラの機械は古代ギリシアの科学技術について、一からの再考をうながすものである」と彼は書いている。「55年前に発見されたのだが……あたかもツタンカーメンの墓を発掘してみたら、内燃機関の腐食したかけらがみつかったような、驚嘆すべき発見だった」。

この喩えはわかりやすい。

ほどなくプライスは、歴史学者社会学者と激しく対立することになった。彼はさまざまな分野で出版された科学論文の数を数え、誰が誰の説を引用しているかを正確に分析し、学問の進化にかんする自説をさらに押し進めた。伝統的な歴史学者は、相変わらずプライスの主張にはっきりと反発を示した。彼があまりにもものごとを単純化しすぎ、社会の発達や知識の蓄積を真に理解することより、目立つことのほうが好きなのではないかと考えたのだ。

引用関係に目をつけるなど、いろんなことをしていたようだ。

プライスは機械に組み込まれた情報が、どこからきたものかもつきとめた。それは好奇心を刺激する作業だった。たとえば、19年周期を考えだしたのはバビロニア人だった。彼らは何世紀にもわたる観測の結果を、さまざまな方程式であらわし、それを使って天体の位置を予測した。

バビロニア人とギリシャ人の知恵が融合とか胸が熱くなる。

プライスは自分の成果を『ギリシア人からの歯車』と題する70ページの論文にまとめ、1974年6月に出版した。アンティキテラの破片が、現存する最古の歯車で、古代の遺物の中でもけたはずれに精密度の高い器具であることはすでに知られていた。だが、差動歯車の発見は衝撃的だった。差動歯車に要求される天文学的知識と、抽象的な数学的理解力と、精密な技術力の結合は、ルネサンス期以降にしか実現し得ないはずだ。だがアンティキテラの機械は、どこにも無理のない確実さと技量で作られている。

ここで一件落着とはならず、この論文を読んだ次の世代がさらに研究をし、プライスさんの誤りを指摘したり、競争があったりして、物語は二転三転していく。

海洋考古学だけでなく、ギリシャの歴史、歯車の構造や歴史、そして測定技術の進歩など、このアンティキテラの機械に対して様々な角度からアプローチしているので、読んでいて非常に楽しかった。今も昔も謎解きは人を魅了するものである。

アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ (文春文庫)

アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ (文春文庫)