もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来

yomoyomoさんの新しい本が出たということで買った。連載はところどころ読んでいたけれども全部読んだわけではないし、このように各章ごとに丁寧な解説付きのまとまった本が出るのはとてもありがたい。それもDRMフリーの達人出版会からである。購入者のメールアドレスが入っているだけで通常のPDFファイルとして扱えるのでとても便利だ。

これまでyomoyomoさんの解説や文章はわりとニュートラルでさっぱりとしたものが多かったと記憶しているのだが、本作では割と踏み込んでいたり、多少自虐があったり、好き嫌いを明確にしていたり、感情が見え隠れしていて意外だった。電子版についているディープな付録を読んだ今ならその理由が想像できる。いずれにせよこれほど密度の濃い内容を楽しくとても深く読めるこの本は貴重なのでぜひともおすすめしたい。

「ブログは書き散らかしができ、蓄積されると逆に自分のことがわかってくる」

ブログは単なる自己発信だけでなく、自分自身気付いていない自分の関心や興味に気付かせてくる、自己発見を促すツールでもあります。

こんな感じのブログ論もあれば、

「食べ物に対する愛ほど真摯な愛はない(There is no love sincerer than the love of food.)」

さらっとこんな言葉が紹介されていたりする。

このプライバシーに関するところもとても印象的だった。

我々が「プライバシー」と呼ぶものには、具体的にはメッセージの内容を秘密なままにする「秘匿性(secrecy)」、たとえメッセージの内容が公開されても送信者を特定しない「匿名性(anonymity)」、そしてその「秘匿性」や「匿名性」を侵犯する権力に縛られることなく自由に人生の重大事を決断できる「自立性(autonomy)」という三つの意味があること、そしてこれら三つの要素から構成されるプライバシーこそ我々が「民主主義」、「秩序ある自由」、「自治」と呼ぶものの前提条件になる

プライバシーを保護することが一個人の権利を保護することだけでなく、よりよい社会を形成していく上で必須のことだということがよくわかる。こういう視点で考えたことはなかったので、とても印象的だったのである。

情報については、こういう視点は確かに忘れがち。

「情報は力である。しかしあらゆる力と同じく、その力を占有しておきたい者たちがある」

ビットコインブロックチェーンの話も取り上げられている。

仮に(自分が投資する)テクノロジー産業が金融サービス産業を変えようと思っても、既存の金融サービス企業の上では新しいサービスを作るというのはありえない。例えて言うなら、Google Appleのプラットフォーム上でサービスを作ることで GoogleAppleを打倒しようとするようなものだ。本当にインパクトを与え、大きなビジネスを生み出すには、既存の金融産業を完全に迂回して出し抜くサービスを作る必要がある。

でもやはりこの本のメインは開かれたウェブ、オープンカルチャー、ハッカー倫理がどうなっていくのかであり、このリチャード・ストールマンの話が前提となってくるように思う。

ラボに残ったのは、システムやハードウェアの保守の仕方も知らない、あるいは知りたいとも思っていない、教授や学生やノン・ハッカー研究者ばかりだった。マシンは故障し始め、修理もしてもらえず、ときにはただ捨てられてしまうこともあった。ソフトウェアについても、必要な変更が行なわれることはなかった。ノン・ハッカーたちは、市販のシステムに頼ることで対応し、同時にファシズムとライセンス契約とを持ち込んだ。ぼくはよくラボの中を歩き回った。かつてはハッカーたちでいっぱいだったのに、今では夜になると人っ子一人いない部屋をいくつも通りすぎながら、ぼくは思った。「ああ、可哀そうな AI ラボ! お前が死にかけているのに、ぼくは助けてやることができない」

様々な要因により「自由」が絶滅の危機に瀕しているのではないか、というのがメインとなっている。

Don't be evilなどからよく知られるプラットフォームの「邪悪」について、

「「邪悪」が絵に描いたような悪党の悪巧みからではなく、そうした力を持つ者たちの高慢や独善から導かれることが多いことにもっと自覚的であってほしい」

そして、人間の悪意という別の「邪悪」について、

「その不快な経験から何かしら教訓を得たということはありません。ただ一つ言えることは、本当に困ったときに、ほとんど誰も助けてはくれないということです」であり、そして最後の「そして、その「邪悪」なものが勝利する現実に対して、それを是正する何かしらの術があるかと言われると、ワタシには何もないというのが正直なところです」

結局のところ受け身な対応しかできないという現実を認識させられる。

そして、自由のために規制しなければならない時代になったという現実も認識させられる。 

ネットはリアルとは別の自由な空間なんだから政府は規制なんかするなと拒絶して済んだ季節はとうに過ぎ、我々はネットに対応する法律を整備し、規制を行使していかなければならないのです。例えば、ビッグデータの利用とプライバシーの問題にしろ、「忘れられる権利」の問題にしろ、我々はしかるべき法整備を進めなければなりません。そのとき重要なのは、目先の利益/不利益の調整ではなく、我々はインターネットをどういう場にしたいのか、そこで何を守りたいのかという根本にある理念や美意識であるべきです。

 そして、歳をとることについても考えさせられる。

果たして自分は情熱や好奇心を今も保ち続けているだろうか? 今も自信をもってイエスと答えたいところですが、ワタシの場合、今でもそのように見せかけているだけで、本当はそれが尽きかけているのではないかという恐れがあります。

そんな感じで、決してふわっとした明るい未来を描いた本ではない。とても重要で、日々インターネットを使う人にとってはとても身近なテーマが描かれている。 

それに関して紹介されていたクルートレイン宣言は、考える指針となるかもしれない。

重力はそれが我々をブラックホールに吸い込むまでは素晴らしいFacebookGoogleAmazonApple が提供するのは、その会社のゴーグルを強いられるようなウェブ体験である。これらの企業の単一性が危険なのは、それが邪悪だからではない。彼らは実に良い仕事をしており、それは称えられるべきだ。しかし、彼らは集団性の重力、つまりは「ネットワーク効果」から利益を得ている。競争相手がいないなら、こうしたウェブの巨人が初心を忘れてないか我々は深く警戒する必要がある。

 利便性のためにデータを提供するとして、提供したデータの使い方も制限する必要がある。

あらゆるものがネットにつながるのは OK だ。だが、集まったデータを利用するのは、人間であってほしくない。

こんな感じでオープンカルチャー、電子化、テクノロジー最高って考えていたら、こんな風に冷水を浴びせられる。それはカリフォルニアイデオロギーだと。

この本に書かれているのは、そうやって電子書籍が広まっていくのはいいんだけど、そうなると書籍ビジネスって基本的に今の構造のままだとシュリンクしちゃうってことを書いてて、要は市場規模がちっちゃくなる、と。でも、テクノロジーとかインターネットを好きな人は、これが未来だ、とか言ってて。でも、それってあなたたちの共産主義的なエゴなんじゃないですか? ということを書いてるんですよ。でも、結構僕らってそういうとこに割と無頓着なところがあると僕も自分自身自覚してて、要はオープンなインターネットがいいとか、オープンソースがいいとか言ってるんだけど、それがいいって言ってるのって、あんまりロジックがなくて、それがカッコいいとかクールだとかそういうところの気持ちに支えられてる部分が少なからずあると思うんですよ。

自分は完全にその無頓着な側の人間なので、確かにこういう考え方はある種の宗教であってイデオロギーであることは否めないと自覚する必要を感じた。

そして、自分として最も印象的だったのは36章の「20 年後:インターネットの自由という夢の死」である。表題にもつながる重要なトピックだ。

そしてそれは、情報は自由にアクセスできるべきで、コンピュータ技術は世界をより良い場所にするというハッカー倫理への信頼も意味しました。その「インターネットの自由という夢」を実現したくて、彼女は弁護士としてハッカーたちが重要な仕事をできるよう、彼らの弁護を引き受けてきたのです。

しかし、その「インターネットの自由という夢」は死につつあると彼女は警鐘を鳴らします。

好むと好まざるとにかかわらず、我々は自由やオープンさよりもセキュリティやユーザインタフェース知的所有権などへの関心を優先させてきました。その結果、インターネットはあまりオープンでなくなり、より中央集権化し、より規制が強化されてしまいました。

個人の趣味から始まったものが大企業の産業と化し、オープンで自由闊達だったものが閉鎖的に変質してしまう、情報技術の典型的な発展の「サイクル」にインターネットもあてはまるだろうか? と問いかけます。

もしそうならば、インターネットもテレビと同様に中央集権化した企業に仕切られるものになってしまうでしょう。そして、そうならば、多くの人は「インターネットの自由という夢」をもはや共有していないことになります。それどころか、多くの人はインターネットに規制を望んでいる――。

これを読んでいてとても悲しい気分になった。大学生の頃にフリーカルチャーの思想にかぶれていた自分にとって、薄々気がついていたもののあの世界が過去のものになっていくことがとても悲しかった。

暗号についても、大事なのはわかるけどテンション上がらないよねえと(おそるおそる)率直な意見を書いていて、ああ自分だけじゃなかったと妙な安心感を抱いてしまった。こんなふうに重要なのは頭では理解しているのだが。

暗号化はデフォルトであらゆる通信に有効であるべきで、何か保護する価値があるものに対してだけ有効にする機能ではダメなのだ。

これは重要である。重要なデータに携わる場合にだけ暗号を使うと、暗号化はそのデータが重要である合図になってしまう。

 オープンで牧歌的な時代はそう長くは続かなくて、それを幼年期の終わりと呼ぶのかもしれないなあと寂しい気持ちにさせられる。

かつて電話もラジオもテレビも通った道である、オープンで自由だった分野が支配と独占へ向かうサイクル論は、メイカームーブメントにも当てはまるのだろうか

 ブラックボックスを受け入れるとして、どのブラックボックスかって話になる。これはとても大切な設問で、自分も絶対に関わりたくない企業はいくつかあるし、それはその会社のブラックボックスを全く信用していないからだ。

「誰のブラックボックスを信頼するかが、21 世紀の重要な問題になるだろう」

 あとがきでも引用されているクルートレイン宣言からもう一つ。

「自分が理解しない属性の人たちを悪魔のようにみなすのは、この上なくひどいことだ。(中略)ネットは我々に自分らしくいれる共有地を提供する。その場所は誰のものでもない。皆がそれを利用できるし、誰でもそれを改良できる。それこそが開かれたインターネットの姿である。」

プラットフォームに左右されないようにオープンで互換性のあるものを使っていくのがいいけれども、やっぱり便利なものは便利だし、天秤にかけながらマシなブラックボックスを選んでいくのが個人としての立ち振舞い方なのかなあというありきたりな結論に自分は落ち着いた。限られたリソースと個人的なこだわりポイントからそこそこ良いもの、あんまり変なことされないところを選択していくことがますます重要になっていくのだろう。

インターネットがどう変わっていったか、そして自分はどう関わっていくのか、そんなことをじっくり考えさせてくれるとても良い本だった。

ちなみに付録も素晴らしい。様々なことがとてもストレートに書いてあって、生まれ育った土地から離れて暮らす自分にはグサグサと突き刺さるものがあった。

そんなわけで非常におすすめ。

あと、もしここまで読んでyomoyomoさんって誰?って言う人がいたら、昨年書いたこの記事を読んだらいいと思う。