理学の徒

先日高知市内を歩いていたら寺田寅彦銅像があって、ここがゆかりの地であることを知った。「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」というなかなか唐突な言葉が刻まれているのも興味深い。

 

物理学者であるだけでなく、非常に読みやすい随筆もたくさん残している人であり、著書はパブリックドメインなので青空文庫で読むことができる。

作家別作品リスト:寺田 寅彦

最近研究者的なものの考え方、アプローチを色々言語化する必要があり、こういう形で様々な言葉を残してくれる人はありがたいと思っていたところである。

また、これとは別に最近読んでいた本でも寺田寅彦(をモデルにした人物)が出てきた。

知りたいと思い、考えて考えて、そして知る。それが理学ですよ。この世界は謎に満ちていて、自然は自ずとその答えを識っている。理学の徒は、その答え合わせをしているようなものなのです。

長年自然科学の分野に慣れ親しんでいると当たり前すぎるのだが、この「答え合わせ」をしているという感覚は研究というものに取り組んだことがない人にはわかりにくいのかもしれない。

あの山山だって、好きこのんであの形になった訳ではない。ああなったなら、必ずそうなっただけの理由があった筈なんですなあ。坂道が出来上がったのにも、川が流れているのにも、必ず理はあるんですよ

この世界は、常にそうした手掛かりを示してくれている筈です。凡百処にヒントがある。ただ僕達はそれを読み取ることが出来ない、だから些細な謎でも見付けてしまったら、答えを知りたいと思う訳ですね。その答え合わせの積み重ねが理学であり、自然科学ですよ

このふしぎだと思うこと、答えを知りたいと思うことから、答え合わせを積み重ねて、ほんの少しだけ世界を知るという途方もない大自然の中で第一歩を踏み出すのがここでいう「理学の徒」なのだろう。

まあ、火を熾すことだって昔はできなかったのでしょうからね。今は当たり前でしょう。火打石も燐寸もある。でも何もなければ火だって簡単には熾せませんよね。電気も同じで、電気を発生させる装置を使う。だから、なんだか人工のもののように思えますが、別に魔法を使ってるわけではないんです。原理原則は何も変わっていない。自然の摂理の応用ではあります。

形から構造を類推し、確認をしてからその本質を見極める

最近「原理原則」みたいなところを考えているので、話がつながってきて個人的に面白く感じている。自然科学に限らず、研究に限らず、このような頭の使い方は様々な場面で必要になるように思う。そこで「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」に戻ってくるのかもしれない。