好奇心と実践すること

買いかぶりすぎだよ、と思いながら
eboshi blog:社会人と学生、大人と子供、実践と妄想
http://eboshi.s140.xrea.com/MT/archives/2006/07/post_93.html
を読んだ。ここまでしっかりリアクションがあると、日記を書いていてよかったと思う。ちゃんと自分の言葉で表現しない限り、他人に自分の意志は伝わらないから、こういうことは大切だと思った。やはり言葉足らずなところがあって、多少誤解されている気がしないでもないのでちょっと補足したい。

これは、Lazy Suitsにおける「もっと速く成長すれば、もっといろいろできるのにという気持ちがあって、その切羽詰まったレベルがはっきり言って学生の頃とは比較にならない」という事態とまったく同じものだと思う。何も知らない、まさに今の自分のような学生のときに考えていた妄想じみた夢とか希望が、仕事に就き現実というものを知るにつれ、だんだんと覆される。

同じじゃないと思う。ちょっと表現が悪かったか。単に、いま会社でお荷物になっているから、学生のときはそんな状況にはあんまりなんなかったから、はやくそのお荷物状況から脱したいという意味なんだけど。それに会社内の話であって、会社を出たらきれいさっぱり忘れているので、そんなに深刻なものではない。経営学に興味が持てなくなった理由は、次の機会に書く。
ちなみに、いまの自分が学生のときに考えていた妄想じみた夢とか希望とかは、依然として覆されていない。まだ健在である。

学生のときに「オレがやってやる!」的に安易に考えていた理想なんて、実際に現場にいる人から見たらほとんど戯言めいたことだと思う。どんなに夢をアツく語って面接官に訴えても、「じゃああなたは私たちに何を提供できるんですか」のひと言で終わり。何も知らないまさに未熟な学生にとって、明示的かつ具体的に社会に提供できるものなんて何もない。

戯言とそうでないものを分けるのは具体性だと思う。
「世界征服をする」といっても戯言だけど、「南米でクーデターを起こしてアメリカの注意をひきつけつつ、ロシアとインドで軍事政権を樹立し、ミサイルを撃たせて、混乱に乗じて世界を征服する。」と言えば多少具体性があるから戯言から遠ざかる。南米でクーデターを起こすには、どっかに潜り込んだ方がいいとか、こういうつてが必要だとか、いろいろあって、そのためには明日までにこれをやろう。という考え方をしているわけだ。いや、もちろんそんな危険思想はもってないけど例えばの話。
就職活動については、あまり無責任なことを言えないな。自分がそんなにスムーズにいったわけじゃないんで。明示的かつ具体的に提供できるものがなくても、提供できそうなものならあるんじゃないだろうか。結局はポテンシャルで採用するわけだから、期待値を示せればそれでいいと思う。

冒頭で「リスペクト」という表現を用いたのは、まさにLazy Suitsの管理人さんがこの種の不断の努力を実践しているように思えるから。たぶん、こういう人が俗物のあいだに埋もれずに成功していくんだと思う。何も知らないながらに、そういう努力を続けられることのすごさを感じている。

そういわれてしまうと、「この種の不断の努力を実践」しないといけないなーと感じる。今のところ実現できてるのって毎週ジムに行くのと、毎日読むニュースの中で英文記事の比率を上げることくらい。日記に書いてある内容は、こうありたいとかこういう気持ちを忘れずにいたいとかハッタリとかいろいろ混ざっているんで、話半分に。

だけど、「何も持っていない」自分は、ここで違和感を隠せない。はりきってTOEICや資格のための勉強をはじめることは大いに結構だ。でも、具体的で現実的な目標を立てて日々ちょっとずつ、というプランは、どうしても受験勉強的な積み上げ型の思考に見えてしまう。

達成できるんならプロセスはどうでもいいと思う。理想が遠すぎて、どれだけ近づいたかわからなかったら、自分の場合はモチベーションが下がってやらなくなりそうだから、具体的で現実的な目標にするというだけの話。

それでも、未熟な学生としての自分からすれば、そういうプラグマティズムはどうにも近視眼的、打算的なものに感じられてしまう。

理想とかビジョンがなければ、当然近視眼的になると思う。最初に具体的で現実的な目標を立てればそうなるはず。でも、そんなものに意味はない。理想をできる限り具体的にして、それを達成するためのステップに分割して、現実的な目標に落とし込むということ。理想とか妄想とかがないと始まらない。打算的なのは性格か。金銭というよりトータルで打算だからさらにたちが悪い

それにしても、自分の未熟さとか現状の悲惨さをとりあえず度外視して、大いなる目標とか理想の未来図をオプティミスティックに展望するような闊達さは、長い人生を生き抜くうえで絶対に必要になってくるんじゃないだろうか。

自分がどういう方向を向いていくかということを判断する上で、まず間違いなく必要なことだろうと思う。他人に流されずに生きていくなら。でも、それが飲み屋で会社の愚痴を言いながら、冗談まじりに出る言葉に終わるのか、部分的にでも実現するのかは、どうやってアクションに落とし込むかにかかっていると思う。

それでも、いま自分ながらに将来を夢想しているような一種の無邪気さ、子供そのままの未熟さは、変わらずに持ち続けていきたい。好奇心だけは余りある自分にとって、オリジナルかつ面白い人生を営むためには、それが日々の耐えざる努力にまして必要なんだと思う。

だから、両方必要なんだって。妄想で方向を定めて実践で撃つ、又は妄想が動力源で実践が設計図か。実践がなければ戯言だし、妄想がなければ手段が目的化してちっちゃな自己満足に終わるだけじゃないかと思う。


自分の場合好奇心は、学生の頃とあまり変わってないか、多少旺盛になったか。毎日15〜20記事をはてなブックマークに登録しているけど
http://b.hatena.ne.jp/pho/
これは厳選した結果であり、だいたいその10倍くらい読んでいると思う。仕事に関係あるのなんて数パーセントあるかないか。ほぼ完全に趣味だ。ライフワークの1つに過ぎない。おかげである程度の視野を保てていると思うんだけど、好奇心ってのは結局きっかけに過ぎなくて、その次のアクションがないとその場限りで終わってしまうなー、とも感じている。