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「チューリング化」等を読んで

読書

年末に自分のブログを読み返してみたら、なんか似た様なことばかり書いていることに気づいた。機械に置き換えられる仕事についてである。そういえばケヴィン・ケリーの本の「チューリング化」の章にそんなことが書いてあった。

自分がひとたびチューリング化されると、人間にしかできないと思われていた他人の職業が計算機でもできるということを容易に信じられるようになる。人生のいかなる場面でも、画期的変化をもたらす技術を受け入れられる。

こんなふうに前向きに変化に対応していくことが大事なんだろう。また「私たちを作った機械」という章では次のようなことが書かれている。

印刷や筆記やアルファベットは、文化をそれに都合のよいように曲げてしまったのは確かだ。あまりにも不可欠になって、それがない文化や社会を想像することもできない。書くことがなければ私たちの文化は認識不能である。そしてワイゼンバウムが示したように、新しく組み込まれた技術は、それ以前の思考様式に取ってかわる傾向がある。口述は過去のものになり、書物の文化は口述の文化とはしばしば対立している。
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ユビキタス・コンピューティングの到来により、私たちのアイデンティティーはもう一度オーバーホールを受けようとしている。

このように歴史上いくつかある大きな転換点の一つに差し掛かっているんだろうな。その結果として起こるコモディティ化、価値観の変化に関して、「コピーの盛衰」という記事が興味深かった。

あるものが無料になり、どこにでもあるようになったとたんに、その価値は逆転する。夜間の電灯が珍しい時代には、ふつうのろうそくで明かりをとるのは貧しい人たちであった。ところが電気がどこにでもあってほとんど無料になると、電球は安っぽく感じられ、ろうそくはディナーの席で豪華さを示すものとなった。

でも単に珍しいから価値があるというものではない気がする。自分のキャリアもまた然り。自分がユニークなキャリアを積んできたとしても、それだけでは意味がなくて、自分の過去の蓄積をうまくつないで今後に活かしていくことが大切だと思った。
変化の受け入れ、アイデンティティのオーバーホールを経て、自分が本当に価値を出せるのは何なのか見極めるのが最初のステップ。機械が得意なところは機械にやらせ、人間が得意なところは人間にやってもらって、肝になるところに自分のattentionを集中投下する。たった3週間だけどそんな視点を持てるようになったのは大きな収穫である。
ケヴィン・ケリー著作選集 1
http://tatsu-zine.com/books/kk1