俳句 四合目からの出発

特に俳句を詠む予定はないが、古典らしいので読んでみた。
俳句—四合目からの出発 (講談社学術文庫 (631)) (文庫)
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本書の目的は、展望の利かない裾野を独りぼそぼそ歩くのをやめ、車を飛ばし、三合目を過ぎ、本日、即刻、いきなり四合目の木っ葉天狗の仲間入りをしなさい、ということであります。

という感じで目的からして、なかなか強烈である。

本書に繰り返し述べる如く「初心者の過失は常に同一」であります。それを知り、それを犯すことがなければ、それは直ちに四合目に到達したことになるからであります。

十五万句ほど調べて、初心俳句の過誤を洗い出した著者だからこそ言える言葉だ。

たとえば、星や灯は必ず「瞬く」と表し、センチな人は「うるむ」と言います。雨は必ず「しとど」と降り、果物は必ず「たわわ」に生ります。紅葉や赤いカンナは必ず「燃え」、空や水や空気は必ず「澄む」で、帰路は必ず「急ぐ」とし、自転車は、必ず「ペダル踏む」とやります。

こういう紋切り型の表現ばかりしていては、いつまで経っても四合目にいけないぞ、というのがこの本の趣旨である。
大量の句を次から次へと蹴散らしていくこの本は、非常にわかりやすく、すっきりした。

  • 孫俳句はまったく駄目といって宜しい。深い人間性においてとらえられることはなく、目を細めて「お、お」と眺めて、いい気になっているに過ぎません。
  • 白靴だけを示して、美貌と断定しても、読者は信じようがありません。
  • 大げさな顔つきに比べて、平凡極まる断定、自分勝手な独断でした。
  • 実体らしいものが何もない理由、説明にすぎません。
  • それは作者一人の事実であって、読者に無関係です。
  • 「あてもなく、ぶらぶらと、ふと・・・・・・」など緊張の欠く言葉が多いことは、注意せねばなりません。
  • ゆっくり経過を示すつもりが、かえって作者の間延びした阿呆さをさらけ出しました。
  • 下手な作者の、下手に崩した形は、絶対に参考になりません。
  • それは作者の頭が足りないからです。
  • 読者を迷わせる文は、悪文であります。
  • 神経のひ弱い甘ったるい言葉を挿入し、センチ気分を洩らさずにはおけないのがこのセンチ立場です。前例のごとく、ひとり・ほのか・そっと・よるべなし・そこはかとなくなど、こうしたひ弱さを露出しなければ、詠い上げたと満足できないのです。
  • 初心にはこの「友」の頻出度が非常に高く、かつどれもダメで、「友・久々の友」と来ると、「ああこれは初心者だ」と考えてさしつかえありません。

罵倒する言葉がよくもここまで出てくるもんだな。単なる評論家なら口ばっかりって思うけど
次から次へと蹴散らすこのレベルまで来ると、それはそれですごいと思った。

俳句は、言葉をどんづまりにまで押し詰めて、そこで作者が自分を表現する文学である。

この人が主張したいことは、この辺だろうか。五七五に感動を凝縮させること。

作者が直指すれば、読者は物事の姿を目に浮かべています。だから説明しないでもよろしい。「百合白し・飛行機雲一と筋白し」の白し、その他、百合の姿、雲の姿の、当然目に浮かぶ点は、みなむだなのです。付け加えれば、必ず「説明」になります。だから賢明な作者は、名詞で物事を取り上げたら、その次は必ず見事に体をかわして、他の方向へ展開してゆきます。そのものを、もう一ぺんベタベタと撫で回したり、猫のごとく体をこすりつけません。

無駄な言葉を入れる余裕なんてないんだから、徹底的に省く。
なんか俳句って技術文書に似ている気がした。冗長な形容は不要な辺りが特に。
必要なことを端的に示すというのは、俳句に限らず重要なことであるので、
自分が書く文章を見直してみる良い機会かもしれないと思った。