日本語が亡びるとき
これほどまでに途中で読むのをやめようかと思った本はなかった。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で | |
水村 美苗 筑摩書房 2008-11-05 売り上げランキング : 43 おすすめ平均 Tough love of wisdom 〜 “叡智をもとめる”ことの不合理さ 「ことば」に対する深い洞察力に脱帽 受け継ぎ、引き継がせるべき日本語について見つめる大変興味深い書 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
○○人の××がどうのこうのというのは、国際交流してきました的でうんざりだし、
なんでも序列をつけたがる偏見まみれの表現(価値観?)にも辟易としたけど、
最後まで読んでなんとなく著者の主張がわかったような気がした。
著者の美学みたいなのがわからないけど、三分の一くらいの分量にできそう。
メインテーマは興味深かったので、ちょっと考えてみることにする。
私程度の者でさえ果たして日本語で小説を書こうとするであろうか。
それ以前に、果たして真剣に日本語を読もうとするであろうか。
自分は小説家ではないので、「小説」の部分を「ブログ」又は「文章」と
置き換えてもいいかもしれない。文学についてもいろいろ書いていたけど
この本と自分との接点を考えたときに、大切なのはこの部分かと思う。
そこで思い出したのは、以前村上春樹が書いていた文章。
参考までにぼくが実行して成功した方法をあげておくと、要するに日本語を読まない、これに尽きるわけです。日本語の小説はもちろんのこと、新聞も雑誌も一切読まない。「ポパイ」も「ブルータス」も「プレイボーイ」も「ナンバー」も「週刊文春」も「話の特集」も「噂の真相」も「家庭画報」も「暮らしの手帖」も「中央公論」も「朝日ジャーナル」も「漫画アクション」も、とにかく何もかも読まない。テレビも観ない。ラジオも聴かない。そして身のまわりに何冊か英語の本を置いておく。これだけです。いやでも英語の本を読むようになる。
〜村上春樹「英語の小説を読むための幾つかの方法」(別冊宝島・道具としての英語「読み方編」1981年発行)より〜
これの影響だけではないけれども、以前けっこう真剣に日本語の追放を考えたことがある。
会社に入ってみると「人間ならば英語を使えるものだ」という雰囲気があるし、
極力日本語を廃して、英語でインプット、アウトプットするのが手っ取り早いかなと。
君も日本企業向けのコンサルティングなどしていないで、自分が投資しているベンチャー企業数社の社外取締役的なコンサルタントになってやっていく気はないか。コンサルタント料の一部を未公開株でもらえば、その会社が上場した時にぐんとアップサイド(株式上場益)が期待できて面白いよ」
つい最近アメリカ人の友人のベンチャーキャピタリストからこんなオファーを受けた。「日本人であることをそぎ落とした」ところで私の価値を評価してくれた点はとても有難かったが、話を聞きながら、「このオファーを受けたら、日本人でなくなってしまう」と情緒的に思い、話を前に進めることを積極的にはしなかった。
〜梅田望夫「シリコンバレー精神」より〜
こんな風に日本人であることをそぎ落として生きていくだけの力や覚悟が
自分にはあるのかなと考えたりする。個人的にけっこう重要な問題なのだ。
自分が費やすことができる時間や労力には限りがあるわけで、
分散させるよりはどこかに集中させたいわけで、けっこう考える。
そんな風に考えて、英語でのインプット、アウトプットに力を入れる人が増えると
ウェブというのは極端なもので、見ないものは存在しないも同然になるわけで
著者の言うように「日本語が亡びるとき」が来てもおかしくないと思った。
そういうわけで、一つの問題提起として興味深い本かもしれない。
英語ブログを書こうかな、RSSリーダーの英語と日本語の比をどうしようかな
なんてことをこの本を読みながら考えていて、いまだに悩ましい問題なんだけど、
日本語の本や日本語のイベントのレビューを英語でやる必要はない、
というより、日本語のものは日本語のままアウトプットしたいと思った。
食事とか電子工作とかみたいに自分でMakeしたものは言語を越えたものになり得るので、
英語で書くといいかもしれない。個人として世界をベースに考えたとき、
名刺代わりの英語ブログというのがあると便利だとは思っている。
大切なのは、限られたリソースをどう配分していくかなんだろうな。