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ロボットの時代〔決定版〕

読書

この本も短編集なのだが、著者自身のコメントがそれぞれについていてむしろそこに価値があるような気がする。

そしてSFの主なプロットの一つはロボットの創造であり―これらはたいてい鉄でできた魂も感情もない創造物として描かれた。ここでもフランケンシュタインとロッサムのあまりにも有名な行為と最後の運命が影響をあたえ、プロットは変わりばえのしないモチーフをくりかえした―ロボットが作られ、創造主を破滅させる、ロボットが作られ、創造主を破滅させる、ロボットが作られ、創造主を破滅させる―1930年代、わたしはSFの読者となったが、何百回とくりかえされるこの陳腐な筋書きにほとほと嫌気がさした。科学に関心をもつ者としてわたしは科学に対するファウスト的解釈に憤懣をおぼえた。

知識はたしかにそれ自体危険をはらむ、しかし危険に対する反応が知識からの後退であってよいものだろうか?われわれは猿に還り、人間の精髄を失おうとしているのか?それとも知識はそれがもたらす危険を防ぐ防壁として用いられるのだろうか?

換言すればファウストはたしかにメフィストフェレスに出会わなければならないが、しかしファウストは破滅させられるべきではないのだ。

こういう前向きな姿勢に非常に好感が持てるのである。

私はこれらの考えをもとに1940年、わたし自身のロボット物語を―ただし新機軸のロボット物語を書きはじめた。わたしのロボットは創造主にむやみに反抗したり、ファウスト罪と罰を具現してみせるような退屈な行為は、決して決してしない。

ナンセンス!わたしのロボットは技師によって設計された機械であり、冒涜者によって作られた模造人間ではなかった。わたしのロボットは完成の瞬間から彼らの<頭脳>に存在する論理的指針に従って反応した。

この短編集でも面白いのはやはりスーザン・キャルヴィンが出てくる作品。

ロボットの不完全さは人間の創意と知性で補わなければならないと言いましたね。まさにそのとおりなの、あなた、そのとおりなんです。ロボットには創意工夫の才はない。彼らの頭脳の働きは限られているし、最後の小数まで数学的に解明しうるものです。それが、じっさいわたしの仕事なんです。

この発言は特に示唆的だと思った。ロボット対人間ではなく、ロボットと人間が協力しながら問題に取り組む。まるでのび太ドラえもんではないか。そういえば将棋でも人工知能と人間がタッグを組んだトーナメントがあったような気がする。

それからもう一つ「創意工夫の才はない」で思い出したのは、当業者(person skilled in the art)のことである。発明に進歩性があるかどうか判断する基準で、当業者にできるかどうかを考えるのだが、ロボットは当業者だったのかと考えると非常にしっくりきた。人間がロボットとともに行動作業をする機会というのは、既に多くあると思うが、ますます増えていくのだろう。