数学で何を学ぶか

捨てようと思った本をちょっとメモ。

数学で何を学ぶか数学で何を学ぶか
森 毅

講談社 1971-01
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自分が生まれる10年も前に書かれた本か。

ファインマンの言葉から
もっとも優秀な学生にも「すべてがわかった」という気分にしないようにした。
そしていちばんダメな学生にも、「これだけはわかる」という神髄が残るように努力した。

ブログとかにもあてはまるのかな。

戦後、ぼくは青年でした。そしてぼくは、ダマサレタとワメク大人を信用するまい、と心にきざんだものです。だまされるのがいやなら、だまされないようにするだけではありませんか。そして、自分で判断して、自分の判断に責任を持つだけです。もちろんこれもよく誤りますが、それは人間だから、仕方のないことです。

いつの時代も変わらないなあ。

ギャンブルとは、儲ける少数者にもぐりこむしかないのです。平均的であれば、かならず負けるのです。もしも計算するのなら、平均的な確率では全然役に立たず、バラツキの仕方を調べ、うまいアナを当てるべきなのです。

期待値を計算したって意味ないってことか。確かにそうだな。
ローリスクミドルリターンなんてものはギャンブルにあまりないわけで。

実数でなくて虚数になると、たいていの人は違和感を持つようです。実数とは現実で、虚数とは虚構だ、と考える人も多いでしょう。これは正しくありません。実数だって、虚構といえば虚構です。ただ、物さしで目盛られた世界が日常化しているゆえに、つまり、虚構の表現としての日常が偏在するがゆえに、それがリアリティを持って感じられるのです。

これは意識してなかったけど確かにそうだ。そこの線引きに意味はない。
まあ電気系のフェーザ表示で虚数には慣れてるけど。

既成の方法で、多少は手間がかかっても、新しい概念や方法なしですますこともできます。それは、真のサボリではなくて、ただの保守的勤勉さに過ぎません。
サボリは、つねによりよくサボることを求めて工夫する、それが文化の進歩というものです。それがなければ、文化などというものは、ただ古いものが蓄積されたヘドロの海になってしまいます。
とくに最近では、情報量が急速に増加しているといわれます。こんなものを、僕は進歩と考えたくはありません。情報量が急増しているだけに、それをサボりながら処理することが求められていること、ここに現代の進歩の契機を認めたいのです。

面倒なものを機械にやらせて自動化する考え方と似てるような気がする。
そういえば、このブログのタイトルもlazyだった。
google日本語検索のlazyで12位。サボリは重要です。
手を抜くために手間を惜しまない。