文学評論(下)

下巻の構成はこんな感じ。

スウィフトと言われても全然ピンとこないのだが、ガリバー旅行記の著者と言われればわかる。といってもガリバー旅行記が4編からなるとは知らなかった。小人国、大人国までは知っていたが、第3編ではラピュータという変な世界や日本にも行っていて、第4編では馬の国に行っている。

ガリヴァーも馬の国に漂著した以上は、馬に服従しなければならない。実際ガリヴァーは自分を養ってくれる馬のことを「我が君」(my master)と読んでいる。それでこの国にはヤフー(Yahoo)という動物が居る。どんな動物かと思って行ってみると、豈計らんやヤフーは即ちわれわれのいわゆる人間である。

猿の惑星的な発想というのは昔からあったんだな。それから小人国の王からの命令の解釈が興味深い。

御名をゴルバスト・モマレン・イヴレーム・ガーヂロ・シェフィン・マリー・アリー・グーと呼べる稜威高き小人国の皇帝は、その治しめす版図、あらがねの土のつづく…
しかしこれを読みながらこれほど威張っている大王がおもちゃの人形ほどな大さのであるということを一方に想像して見ると笑わずにはいられない。能くこんなに威張れたものだと、驚くよりは先ず滑稽の感に打たれてしまう。この滑稽の感を起こさせる所が則ちこの作の文学的なところ、面白い所である。しかしてその裏面に伏在するスウィフトの主意は何処にあるかといえば、説明するがものはない。誰にでも明かである。人間は自ら帝王だとか金満家だとかいって自分だけえらいように大得意でいる、しかのみならず時としては自分より大きな者を軽蔑したり、または馬鹿にしたつもりで威張り返るが、奈何だ、それは皆この小人国の王様と一般で徒に自己の無智を示すに過ぎないじゃないか。人間はかくまでに愚な者である。

こんな感じで風刺の効いた文章を書くのがスウィフトなんだとか。

スウィフトは十八世紀において毫も満足する所がない。何処までも不満足である。単に十八世紀に不満足なるのみならず、十九世紀にも廿世紀にも、乃至唐虞三代の世にも不満足なのである。人間のいる所、社会の成立する所は一視同仁に不満足の意を表す男である。それだから世の中に対して希望がない、希望がないからして世を救ってやろうの、弊を矯めてやろうのという親切心もない訳である。その親切心のない所が作の上にありありと反響して現れるからして、これを読む時にも暖い感じがない。和楽した味いがない。滑稽もあり頓知もあるけれども、陰気な感じばかり起る。

スウィフトの声は心理かも知れぬが福音ではない。吾人をして自ら好んで地獄に投ずるのやむをえざるに至らしむる声である。非常に不愉快な感じをおこさせる声である。吾人は真理を悟って絶望の淵に投ずるのが好いか、または迷っても、浮かれて世の中を面白く暮すのが好いか。

スウィフトの不愉快な点は、露骨に人間の弱点を曝く所にある。容赦なく人間に恥をかかせる所にある。人間の醜と陋と劣と愚を陳列する所にある。臭いものをむやみに鼻の先へ突きつける所にある。

ここまで書くというのもすごい。そして『愛蘭土における貧家の児女のの両親及び国家の負担となることを除き、彼らをして社会に有用の材たらしめんとする卑見。1729年。(A Modest Proposal for preventing the Children of Poor People in Ireland from being a Burden to Their Parents or Country, and for Making Them Beneficial to the Public. 1729)』である。

これを真面目とすれば純然たる狂人である。しかし始めから読んで見ると、いろいろ面倒な統計やら何やら調べて、頗る慎重な口調で論じている。到底巫山戯ているとは思えない。現に外国の或記者はこれを真面目に論文と解釈して、愛蘭土がかくまで極端に疲弊しておったという例に引いたそうである。この外国記者を瞞した如く、彼は何人をも瞞すのである。冗談を休み休みいう人の冗談は自ら冗談と真面目の境がつくが、平常冗談を商売にしている冗談は普通の談話と区別することが出来ない。否、冗談が即ち普通の談話であって、その作者の常態なのである。

こんな感じで長々とスウィフトを論じていて、この人はスウィフトが大好きなんだなということがよくわかる。それからポープ。

或批評家の話に、ポープほど人口に膾炙する詩句の多量を後世に残した者はないといってある。この批評家の語の正しいか正しくないかは引用句の辞書を調べてみれば大体分るであろう。試みにバアトレットの『慣熟引用句集』を取って検べて見ると、その結果は大体次のようである。シェクスピヤーは121頁を占めている。ミルトンは32頁、ポープは33頁である。

固より大体の見当に過ぎんけれども、これを標準として見ると、数多き英国文学者の中で第2位を占めていて、ミルトンと伯仲の間にあることが分る。

自分の下手な長たらしい文句を使って、わが不細工をもどかしく思うよりも、既に手際よく出来上がっている成句を借用する方が苦が少ない。のみならず、かえって能く自分の意志を通ずるに足る訳だ。しかしてこれらの真理は前にもいえる如く日常の交際に当って閑却すべからざる陳腐な真理であるからして、ポープのような巧者な技芸家が出て、己のいわむと欲する所のものを悉く口調の好い対句に纏めてくれたならば、如何でもその方が重宝になるに違いはあるまい。これがポープの詩句の存外世の中に永く残る理由であろうと思われる。こう解釈して見ると、内容からいえば余り詩的でないポープの句が数倍詩的な句よりも多く人に謡われるというパラドックスも自ら解けるようである。

後に残るものにはそれなりの理由があるということがよくわかる。詩的なものよりも使いやすいものが残るというのは、わかる気がする。これも一つのやり方なんだなと思った。最後はデフォー。正直何の人か知らなかったが、ロビンソン・クルーソーを書いた人らしい。

彼の小説がどう始まって、どう終るかを比較して見ようと思う。というものは彼の小説の首尾だけを比べて見ると、悉く同一の鋳型に這入っているということが解ったからである。

さて以上を綜合して考えて見ると、一目瞭然たるのはデフォーの小説が主人公を写すのに必ず幼時から説き起すということである。甚しいのは
主人公の両親または系図から始めたのさえある。そしてその結末は必ず主人公が老人になって倫敦に落ち着くか、あるいは死んでしまうことになっている。

こういう視点から物事を見てみるというのはなかなか面白いと思った。

どんな風に飛び下りたかはデフォーの注意に値せざる観察である。彼は事実を好むけれども、事実の途中は構わない。飛び果たせたか、飛び損なったか結果さえ知れば満足する男である。自分が神経が鈍いから、自分が心配にならないから、如何に安全に飛ぼうと、如何に危うく飛ぼうと、それは気に掛からない。彼が気に掛からないから、篇中の主人公も気に掛けていない。下から受取った時、嬉しがっても、よろこんでも、必然なる性格の活動と見做すべき程度が減じて来る。けれどもそれがデフォーの人格だから仕方がない。

これはこれで面白い意見。

私は正直に白状するがデフォーの全集を読み通していない。以上の講義は私の知る限りにおいて、私の考を纏めたものである。だからデフォーに対して甚だ済まん気がする。

真剣に文学を研究している人から見ると、準備不足な点が否めない講義なのかも知れない。解説の文章がなかなか興味深かった。

氏がこの講義で本当に言いたかったことは、この講義で明らさまに言わなかったことに他ならない。つまり、小説を書くということが自分にとってどういう意味をもっているか、という間に対して自分なりに答えを出そうとすることにあった。そして、その答えは一応出ている。だが、単なる言葉としての答えには余り意味はない。書くことが即救われることにつながり、救われることが即書くことにつながるということ、そういう体験をもつということ、これは普通の人間にとって容易なことではない。

いろいろな読み方ができる本だと思う。ガリバー旅行記とロビンソンクルーソーくらいしか知らない自分からすると、一般教養の講義でおっさんが小咄をいろいろ織り交ぜている感じで楽しめた。そういう楽しみ方があってもいいと思う。

文学評論〈下〉 (岩波文庫)
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