北海道を離れて早10年と少し。ほんの少し残っていた方言もほとんどなくなったと思っている。でもまだ残っているのがあって、それが表題の「押ささる/押ささらない」である。たぶん正確に置き換えられる言葉がわからないから、いまだに自分の中に残っているのだろう。
- ボタンを押す
- ボタンが押ささる(押ささったと完了系にする方が多い)
日本の多くの人が前者を使って、北海道の人が後者を使うというわけではない。北海道の人は両方使うのである。何が違うのかというと話者の意図が含まれるかどうか。押す意図がないのに押してしまったという状況を表す言葉として、ボタンが押ささったというのである。バスで降りるつもりがないのに、ぶつかって押してしまうとか。今書きながら思ったが「押してしまった」でいいんじゃないか。「押ささる」の方がちょっと短い。それに主語がボタンになるので、押したのは僕じゃないアピールができる。あくまでも悪いのはそこにあるボタンであって、僕は悪くないということだ。
次に否定形。
- ボタンを押せない
- ボタンが押ささらない
ボタンが壊れているなど何らかの原因により、ボタンを押すことができない状況で、押しても押してもボタンが反応しないときに後者の表現を使う。ボタンが機械的に壊れている場合にも使うし、機械的には問題がない場合でも断線している等の理由により本来の機能を果たしていない際にも使う。肯定系の表現と同様に、主語がボタンになっているのが特徴的。どちらの表現にしても、自分は何かをする意図があるのだがそれを妨げる何かによってできない状況になっているため、僕は悪くないということだ。
さて、ここから何が言えるのか。試される大地北海道は、雪などの過酷な状況で物事が思い通りに行かなかったため、環境のせいにして自分のせいではないとアピールするくせがついている、けしからん、とか言えば馬鹿っぽく他人を煽れるけれども、まあ関係ないでしょう。
開拓史としてヨーロッパやアメリカの人々が入ってきたので、彼らの影響を受けて印欧語族に見られる無生物主語を使うようになった、という言い方をしたがる人もいるかもしれない。先日同僚の案件でインドの代理人がやらかしていて、でもお客さんへのメールにWeを使いたくないって言ってたんで、受け身にしてモノを主語にすればいいんじゃねって答えておいたんだけど、責任回避という意味で無生物主語とは便利なものだ。言葉なんて結局印象なんだから。でもその辺が関係あるかどうかはわからない。
なんでこんなことを書き始めたかというと、昨日洗濯機の電源スイッチが壊れて陥没したからである。一応細長いもので内部のスイッチを押せば使えるけど、大家に電話したら新しいものを買ってくれるそうだ。元々全自動洗濯機のスタートボタンが陥没していたのだが、もう一つも逝ってしまったわけである。とりあえずその場しのぎとして、単4電池をマスキングテープで巻いて絶縁したものを陥没した部分に挿しておいて、これを押すことによりスイッチを作動させている。いろいろ工夫して修繕したり、代用品を考えたりするのは面白いけど、それって本来ない方がいい作業だよなと思ったりする。