豆腐小僧(約600ページ)と塗仏の宴、宴の支度(約1000ページ)
始末(約1100ページ)を読んで、指輪物語、二つの塔DVD完全版を
3時間半くらいみた。あとは御茶ノ水の聖橋に行ったことくらい。
川と地下鉄と地上を走る複線の電車と二本の大通りとが一ヶ所で
交わる場所である。他にあるかもしれないけど知らない。
テレビはほとんど見てない。おおみそかに桜庭を少々。
平成教育委員会を20分くらい。スポーツニュースを同じくらい。
古畑は見るのが面倒になってやめた。なんかどうでもいい。
そもそもテレビなんか嫌いだ。受動的過ぎる。
口をあけて餌を待っているみたいだ。前時代的でばかばかしい。
CMで音が大きくなるのも嫌だ。発想がせこいので見てて辛くなる。
番組についてもまた然り。子供だましだ。
あと情報が薄まりすぎている。もう無価値だ。
もうちょっと突っ込んだことが知りたいのにすぐ話題を変える。
そんな事一行で済むじゃないかと思えることをだらだらやる。
ものすごい技術が集まっているのにコンテンツのせいで台無し。
なぜ日記を書くのをやめようかと思ったかというと
日記が僕の生活や思想の一部であるのかそれともこの日記のために
僕の生活や思想が存在するのかわからなくなってきたからである。
普通に考えれば前者であるのは明らかなのであるが
一概にそうとは言えない気がしてきた。
僕が普段会ってない人がこの日記を読んでいたとする。
あるとき僕が書くのをやめたとすると僕との接点が消滅する。
すなわちその読者にとって僕の存在は過去のものになる。
僕が死んでいたってわからない。接点がないのだから。
逆にいえば、接点がなくなれば死んだも同然である。
そうするとその唯一の接点は本体そのものと同一ではないだろうか。
接点のために本体があるという考えもそれほど遠くない。
そもそもなぜ日記を書こうかと思ったかというとまず覚え書きである。
それから自分がどんな生活をしているか親に見せようということ。
それから覚え書きを共有したら有益じゃないだろうかということ。
あと僕は端的に自分を表現するのが非常に苦手であるので
だらだらと書いていけば自己紹介になるのではないかということ。
大体そんな感じである。今もそれほど変わってない。
実家に帰ったら親に見せる必要はないからこの理由は消える。
別にメールを書いたっていい。覚え書きの共有だが、
なんかむなしくなってきた。自己紹介も疲れてきた。
あと僕は文章を書くのが遅い。気に入らないと一気に消す。
どうしても皮肉を混ぜたくなる。所詮自己満足。迷惑な自己満足。
今日のテレビの文章だってテレビ好きを馬鹿にしている。
一応自覚症状はある。無意識じゃない、わざとだ。
他人の好みなど放っておけばよいのに突っかかる。子どもだ。
22歳なのに情けない。無関心でいいのに攻撃して満足する。
ということでまとめると
・日記を書くこと自体が目的になりつつあるのが嫌になった
・所詮自己満足な文章で有害ではなかろうか
という感じなのだが、別の言い方もできる。
・書くのが面倒になっただけなのに偉そうに理由をつけるな
基本的に僕はものぐさである。
でも書くのは嫌いじゃないし、精神衛生上よさそうだし
アウトプットトレーニングの一環として悪くない。
ある程度考えもまとまるし、あとで自分で読むのが楽しい。
そういうわけで頻度はわからないけど今後も続くことでしょう。