デジタル時代の著作権

Science Commons翻訳プロジェクトでお世話になっている野口さんの本。あとがきによると元ちくま書房の福田さんがきっかけになったそうだ。著作権のように込み入った内容を扱う場合、複雑な部分を妥協して過度に単純化した浅い内容になるか、複雑でわかりにくいまま提供されるかになりがちだが、この本では深く掘り下げつつ、わかりやすい説明となっていて素晴らしい。

デジタル時代の著作権 (ちくま新書)

デジタル時代の著作権 (ちくま新書)

著作権法の根本問題の一つは、100年以上前に決めた法律の枠組みが古くなり、次第に今の社会で無理が生じているのに、これを変えずに維持しなければならない、と定められていることにあるのです。

こんな感じで一つ一つクリアに説明されていく。興味深いと思ったところをすべて書き出したらきりがないので、特に興味深いと思った無方式主義、ACTA、DRMをピックアップしよう。

無方式主義

もう一つのルールは、1908年に合意された、無方式主義です。外国で創作された著作物については、登録などの方式を要求しなくてもその権利を保護する、という方式を採用したのです。当時の技術水準を前提にした場合、海外の著作権者が、保護してほしいすべての国に自分の作品を登録するのは、あまりに手間がかかりすぎて大変だ、という理由からです。
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条約上は、登録を要件として要求してはいけないのは、外国で制作された著作物だけです。例えば、日本の著作権法が、日本で創作されたものには登録を求め、海外の権利者にだけ登録を免除する法制度は、ベルヌ条約の下でも許されているのです。けれども、実際にはこのような制度を採用している国はほとんどありません。なぜならば、海外の権利者の方を自分たちよりも優遇する制度は、国内の権利者の納得を得られないからです。

なぜ著作権だけ無方式主義なのか(商標にもpassing offがあるけど)と思っていたが、ルールが制定された当時の状況を鑑みれば一応合理的ではある。その結果として、現在著作権でがんじがらめになっている。海外の権利者を優遇するというのは、特許の条約であるPCTで行われている気がする。出願人が外国に住んでいる場合は、翻訳などのトランザクションのため、補正書や意見書を提出する期限が国内の出願人よりも数ヶ月延びていたはず。でも登録の要不要ほど大きな違いではないな。

著作権制度の一番の悲劇は、メリットとデメリットを比較した実質的な改正の議論にたどり着く前に、「そのような改正は、ベルヌ条約等の制約があるから不可能だ」という結論で、議論が終わってしまうことです。つまり、ベルヌ条約の基本構造は、そう簡単に変えられないのです。ベルヌ条約の27条3項には、条約の骨子の改正は、加盟国164カ国の全員一致でなければ変えられない、と定められているのです。

この制約は厳しい。しかも国ごとにいろいろと利害関係があるからややこしい。

模倣品・海賊版拡散防止条約(ACTA)

ハリウッドが輸出するデジタル材が外国で侵害されないように各国がその国内で保護する必要があるというのも通商問題の一つだという理屈で、相手国の知的財産に関する法律を強化させようとしているのです。
米国以外の国々も、著作権の話だけに限ったWIPOのような場では、「絶対嫌だ」と純粋に反対もできるのですが、米国から、知的財産について反対するなら、おたくの農作物や衣料品に関税をかけるぞ、などと言われると、やはり相手国も、弱腰にならざるを得ない面があるのです。米国はここに目をつけて交渉材料を増やし、著作権等の保護法制を強化しようという作戦に出ている、というわけです。特に近年、米国は、途上国との自由貿易協定(FTA)の中で高い知的財産保護法制を要求する、という手法を多用するようになっています。

シンガポールは、2004年に米国とのFTAの影響で特許法を改正している。この本を読んで自分がいかにナイーブだったかを気づかされた。以前シンガポールの知的財産法が標準化に対して柔軟なんてことを書いたけど、単に圧力をかけられて抵抗もできず言いなりになって、著作権を強化する方向にされているだけじゃないか。ルーカスフィルムとかを誘致するのに必要なステップだったのかもしれないけど、なんだかなあと感じた。

今、日本の著作権法に影響を与える通商条約として重要なものに、模倣品・海賊版拡散防止条約(ACTA)があります。これは現在、交渉中で、2010年度内に合意すると言われていますが、この中で、米国の国内著作権法では入っていて、日本では入っていない著作権保護条項を加える方向で合意されつつあると言われています。この条約も、しばらくの間、政府代表の中でした条文案が公開されていなかったのですが、多くの批判を浴びて、つい最近、条文案が一般公開されました。いくら通商条約といっても、いったん国内法として整備されれば広く国民一人一人に影響のある法律ですから、対応としては当然のことだと思います。

ACTAという名前はよく見かけたが、こんなことになっていたとは知らなかった。事の重大さにようやく気づいた。そしてこれは、既に起きたことではなく現在行われていることであり、やり方次第で結果を変えられるかもしれないことなのだ。自分にできることから始めていこう。ここで取り上げることも自分でできることのうちの一つ。

著作権保護技術(DRM

DRMについてはなんとなくわかっていたが、この本を読むと全然わかっていないと気づかされた。なんとなくガチガチに縛る印象自体は間違ってないけど、それで何がどのように問題なのかを理解することが大事。

DRM技術には、いくつかの特徴があると言われています。そして、その特徴はいずれも、従来の著作権制度が有していた自由なスペースを縮減し、権利者と利用者の間のバランスを権利者のほうに傾かせる方向に働くことになるため、問題だと言われているのです。

従来の法律で認められていた権利すら技術的な手段により利用できなくされてしまうことが問題。

米国のDRM保護法制は、もっと広い範囲にわたっています。まず、著作権法の中で、コピーコントロールだけではなく、アクセスコントロールも保護しています。利用者が、いかなる目的であっても、これらのDRMを破ると、原則としてそれだけで(その後、特に違法な複製やアップロードなどをしなくても)直ちに違法、という法律になっているのです。

技術的に制約があるだけでなく、正当な目的でその技術的な縛りを解除することすら法律で禁止されている。自分が具体的に問題だと思ったのは、以下の部分。

DRMは著作物性のない情報や著作権期間の切れた情報も著作物と同様に保護することが可能なのです。これは、アイディアや事実を保護しない、著作権が切れた古い作品は保護しない、という著作権制度のバランスを崩し、利用者の自由を減少させる方向に働きます。
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ある作品を部分的にコピーして貼付ける行為が、単なる違法コピーなのか、それとも著作権法32条に定められた要件を満たす適法な「引用」なのかを、DRMのシステムが状況に基づいて判断することは、現在の技術あるいはその延長線上にある技術ではほとんど不可能でしょう。したがって、DRMをプログラムする者の選択としては、違法コピーの防止を重視して、引用など正当な理由のある利用も含めたあらゆる部分コピーを禁止することになってしまいます。
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もしも、あらゆるDRMを法的に保護することになれば、これらのDRMの特徴のせいで生じる利用者の自由の減少を法律が強制することになってしまいます。

フェア・ユース目的で利用するための回避や、セキュリティ研究をするための回避など、この法律が導入される前には自由にできたことでも、DRMの回避自体が禁止になることで事実上不可能になってしまう。エド・フェルトン事件でも事態がかなり深刻になっていることがわかる。セキュリティホールに関する論文を公表することも、回避「技術」の「流通」だとみなされてしまうため、セキュリティ技術の発展が停滞してしまう。

その他

著作権期間の延長は、ごく一部のベストセラー小説、ごく一部の有名な映画や音楽など、作品のピラミッドの頂点近くにいる、ほんの1%にも満たない作品を保護するために、そのピラミッドの下にあるほとんど利用されてない大多数の作品を塩漬けにするような制度改革を意味するのです。
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延長を希望する人の利益を保護し、かつ、このような問題を回避することは、実はそんなに難しいことではありません。例えば、延長を希望する権利者だけが、自分が権利者であることを証明して、どこかに登録した場合にだけ、延長が認められる、という法制度にすれば、それで問題は一挙に解決するのです。

他の国はlife+70年だけど、日本はぜひこのままlife+50年(かそれ以下)でいってもらいたい。

米国では、公的資金で行われた研究については、データを国に提出しなければならないということが法律で義務化されていて、国が集めたデータをデータセンターで広く公開する仕組みを作っているのです。その基本法は、情報公開法です。簡単に言うならば、国が委託して行っている研究なのだから、国の情報であるとして、広く公開するという仕組みです。

ハリウッド経由でDRMでガチガチにしながら、サイエンス関連のデータの共有を推進するアメリカという国は非常に興味深い。

なぜ日本でのデータ共有が必要なのかというと、「日本の、日本による、日本のための発明・発見の加速」という観点が、分野によっては重要だと思うからです。例えば、地球規模の研究である環境研究や物理などの分野には、あまりあてはまらないかもしれませんが、例えば、医療分野の研究では、日本人は、他国民とは生物学的に特徴が違うかもしれないし、食生活、生活習慣、生活環境、気候など、いろいろな点が日本と欧米とは違うわけです。「米国にはデータがあるんだから、日本の研究者もそれを見て研究すればいいではないか」という考えがあったとしても、その研究成果が本当に日本にテイラーメイドのものになるのかというと、そうはならないのではないかと思います。

相変わらず非常に説得力がある。この流れでサイエンス・コモンズも取り上げられている。あとフェア・ユースも自分の理解が浅いと気づかされた。

これまで見てきたような個別例外規定に対して、いろいろな場面にあてはめることのできる、抽象的、包括的な要件を定めた規定を、一般的な要件を定めた規定という意味で「一般例外規定」と言います。一般例外規定は、今の日本の著作権法には存在していません。

例外規定は既にあるのにと思っていたが、より柔軟な規定のようだ。柔軟性と予測可能性のトレードオフという視点は非常にわかりやすい。今common lawを学んでいるので、以前より違いが感覚的にわかってきた。
その後クリエイティブコモンズ(CC)が紹介されている。ここでもこれまでなんとなく抱いていた疑問が解消された。CCライセンスはなぜデフォルトで表示が含まれているのかと疑問に思っていたが、2002年にできた頃はオプションだったらしい。そこで利用者の97-98%が表示を求めたのでデフォルトになったとのこと。

今の著作権法をあてはめるならば合法だ、違法だ、という議論は、今でもあちらこちらで毎日行われています。けれども、未来の著作権のあり方を考える、という局面では、今の法律をあてはめるとこうなる、という議論だけではなく、このように、人間の可能性を広げるサービスを、将来、日本の社会にどの程度普及させ発展させたいか、という政策的なことも考えなければならないと思うのです。

足もとだけを見るんじゃなくて、将来を見据えて何をすべきか考えて行動するのが大切なんだと改めて考えさせられた。

権利者が望む最適な露出と囲い込みのバランスを実現するために、著作権制度の柔軟性が必要になります。今のところ、この柔軟性を実現するのがライセンスなのです。
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CCのようなライセンスの意義は、合法に著作物を自由に共有するという選択肢を世の中に生み出したことによって、多様な著作物の流通形態や、ビジネス・モデルを、著作権法違反のリスクなく試行錯誤できるようにしたことにある、ともいえるかもしれません。著作物をめぐる技術環境が劇的に変化し、創作者の利用者も多様化する中で、著作権制度の発展のために最も重要なことは、トライ・アンド・エラーだと思います。これを合法にできるようにすることが、次の新しいモデルやバランスを生み出していくのだと思います。そのためのトライは、できるだけ自由にできたほうがよいのです。

わかっていたというか、わかっているつもりでいたけれども、この人やっぱりすごい。このくらい目的意識を持ってイシューを明確にしていきたい。
この本を自分なりに簡単にまとめると次の3点になりそう。

  • ACTAやばい。特にDRMは要注意。ちゃんと動向を見守り、ツッコミを入れよう。
  • データ共有重要。みんなで協力しながら環境を整備して、研究を促進させよう。
  • 「人間にとって、社会にとって、情報とは何か、どうあるべきか、という問いをいつも心にもって」知的財産法と向き合っていくことが最も大切だ。

読む前から面白そうとは思っていたけれども、正直言ってここまで密度の濃いものだとは思っていなかった。初心者でもわかりやすいように具体例が豊富で実に明快だが、物足りなさは皆無だった。デリケートなトピックにも遠慮なくズバズバと切り込んでいくスタイルは爽快ですらある。あらゆる場面でなぜそうなのかということが非常に丁寧に書いてあって、がっちりした土台の上に成り立っていることがよくわかる。
シンガポールで知的財産を学んでその後どうするんだというのはいつも考えるが、この本はそのための指針になりそう。とりあえずもっとサイエンスコモンズを理解して、自分にできることをやっていこうと思う。