高橋是清自伝 上巻

日本の特許庁を作った人、226事件で殺された人、そういえば江戸東京たてもの園に家があったな、という程度の認識しかなかったが、なんとなく興味を持ったので自伝を読んでみた。

仙台藩の高橋家の里子にやられ、アメリカに渡って、帰国して、紆余曲折を経て役人になり、欧米視察して特許庁をつくり、ペルー銀山へ行くというのが上巻の構成。自伝だから多少話を盛っているのだろうが、話半分に読んでもなかなか面白い。

かようにして、船出の日もだんだんと押し迫って来たある日のこと、祖母は私を膝近く呼んで一振りの短刀を授けていうには、

「これは祖母が心からの餞別です。これは決して人を害ねるためのものではありません。男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかも知れぬ、その万一のために授けるのです」

といって、懇ろに切腹の方法まで教えてくれた。また仙台藩の物書役をしておった鈴木諦之助という人は、

大海の外もの国に出づるとも我が日の本のうちな忘れそ

と一首の歌を餞して私を励ましてくれました。

こういうのを読むと、以前読んだ本にあった星一がアメリカに渡った話を思い出す。

「日本人と支那人とは大変にちがう。家にいる保兵衛が、始めて貰った給料を何に使うかと見ていると、真先にヘボンの辞書を買って勉強する、支那人なら何を措いても金を貯めるが、それとは大変な相違だ」

こういう哲学の違いみたいなのはあるのかもしれない。個人差の方が大きそうだが。

「お前は勝手に暇を取って帰るわけには行かぬ。お前の身体は、3年間は金を出して買ってあるのだ。現にお前は友人と二人で書附にサインまでしたではないか」

契約怖い。

「それはそうだけれども、向うではお前を奴隷に買ったつもりでいる。南北戦争以来奴隷の売買は法度になっているのに、向うはその国禁を破っているのだから、こっちに言い分はいくらでもある、行かずにおれ」

世の中が変わるまでには時間がかかるのだと実感した。

「やはり過程をきめなきゃならぬ。俺が英学を教える。漢学は後藤について学べ。それから、俺は忙しいから皆に一々教えているわけにはゆかぬ。お前らの内で、一番覚えの良い者一人だけに教える。それに当った者は、よく覚えて、それを他の者に教えねばならぬ」

必要に迫られていたんだろうけど、教わりながら教えることで非常に効率良く吸収していったんだろうな。

唐津藩では、まだ洋学校がない、それで第一に英語学校を建て、それからフランス式の歩兵を作るため、調練の先生と喇叭の先生とを探している。この方はすでに決ったが、英語の先生がない。月給は向う賄で百円出すといっている。どうだ君が行ってくれれば頼まれた僕も顔が立って仕合せだが」

放蕩三昧でも捨てる神あれば拾う神ありという感じのことが次々に起きている。

「それはよいことだが、お前などはモウ生徒の時代ではない。幸い先ごろ文部省にモーレー博士を聘ったが、その通訳がいないから文部省に出てそれをやったらよかろう」

自分もモウ生徒の時代ではないのだなとなんとなく思った。

それは何でも九州の方で小学校に行ったら、一人の教員が、同時に同場所で三組の生徒に教えていた。その教員は坊さんであったが、一方には黒板に数学の問題を出して生徒に答えさしている。他の一組には習字をさしている。また別の組には読書をやっている。その読書をやっているのを見ると、教師は扇子を持っていて、扇子を見ながら問いをしている。自分は不思議がって、その扇子は何に用いるかと問うたら、これは生徒に対して質問すべき要点を日々書いているのであると語ったとて、大変その心掛けを賞ておられた。そうしてさらにいうのには、教育は一面経済の方からも考えねばならぬ。アメリカでは未だかつて一人の教師で、同時に三組教えるような経済的な教育を見たことがない、実に感心なことである。

塾で個別指導をしていたときに二人に別々のことを教えるのが普通だったけど、3組教えたことはない。課題を与えるタイミングとかがなかなか難しそう。経済的な教育というと、一度Youtubeにアップロードしたものを何度も使えるカーンアカデミーは非常に経済的だと思った。

私が文部省へ入ると、まもなく農商務省が出来た。たまたま新たに出来た農商務省の官制を見ると、多分フランス官制の翻訳であったと思うが、その所管事務として発明専売、商標登録保護のことが規定されている。何しろ新しい仕事であるから、誰をもってこの任に就かしめたらよいか、ちょっと当りが就かなかったらしい。

何もないところから始まったというのがよくわかる。

「日本には著作権を保護する版権はあるが、発明または商標を保護する規定がないようだ。外国人は日本人が大変器用で、すぐに外国品を真似たり、商標を盗用したりして模造品を舶来品のようにして売出しているのを非常に迷惑がっている。米国では、発明、商標、版権の三つは、三つの智能的財産と称して財産中でも一番大切なものとしている故に、日本でも発明及び商標は版権と共に保護せねばならぬ」

とりあえずどこでも真似るところから始まるんだな。

私はその時、まず商標と暖簾の異なるところ、例えば「正宗」といえば、普通世間では優等酒という一般的な意味に用いられて、すでに公知公用のものである。故にこれを登録商標として、専有物とすることは出来ない。しかし酢の商標で「丸勘」とか、醤油の商標で「亀甲万」とかいうものは、広く世間に需要されてはいるが、これらはその商標によって直ちに醸造元を想像するように、一種専用のものとなっているから、まさに商標として保護すべきものである

この当時から既にそれだけ認知されていたのか。

これより先、明治四年のころ、ひとたび発明専売略規則なるものが発布せられたが、さてこれを実施する段となって、発明の審査に当る者がない。やむなく多数の外国人を雇わねばならぬ。そうすれば費用もたくさんかかる、その割合にはろくな発明も出来ない

今シンガポールの特許庁が似たような状況なので、基本的な流れは共通しているのだなと思った。

爾来私は連日特許院に登院して書記長ズリー氏の懇切な指導を受けた。ズリー氏はまず特許院の組織について説明した後、経理部、出願部、審査部、製図部、審判部長室、図書館、模型室等を順次案内して各部局の連絡系統を明らかにし、かつ各部局を訪うごとにその要務の人々に紹介してくれた。

USPTOには製図部なんてあったのか。このとき著者は33歳。早い段階でこれだけの仕事をやっていることが凄い。

「どうも無代で上げるわけには行かないが、交換ということであればよかろうと思う。貴方の方から送って戴ければ、こちらからもお送りしましょう」ということであった。それで私は「今日はまだ出していないが、これから帰って出すつもりだから、その時は送りましょう」という条件で、五カ年前より今日まで並びに今後発行せらるべきガゼット、判決録、明細書並びに図面等の分与を受けた。

今はすべて無料で公開されている情報だが、まだ特許庁のない国にとってどれほど貴重な情報だったかは想像に難くない。情報の価値というのは、いつ、誰にとって、という要素が切り離せないものだと思った。

アール氏は米国著名の特許弁理士で、本業務に従事すること35年、非常に練達堪能の人として知られていた。訪問に先だち、あらかじめ電報を打っておいたので、アール氏はわざわざ停車場まで出迎えていられた。早速氏の馬車に同乗して事務所に行ったが、その内容の充実整頓せるには一驚を喫した。ことに図書室の中には、啻に米国のみならず、英仏の特許に関するあらゆる参考書が、極めて豊富に蒐集されてあった。しかもそれらの書類は、いずれもワシントンにおける特許院の方式を模して、見事に整理分類され、一目の下に、必要なる書類を択り出すことが出来るようになっていた。

アール氏の話では、特許弁理士の主要な職務は、発明者の依頼により、発明の明細書及び図面を作成することであって、その最も困難とするところは、発明の請求区域を分明ならしめることである。その報酬として受け取るべき手数料は、仕事の難易、それに要する時間の長短に比例すべきものであえて一定していないということであった。

また曰く工場における発明の多くは職工によってなされるものである。その場合、雇い主は発明品の特許に要する費用を負担する。もしその発明が価値あるものであった時は、雇い主(あるいは会社)が自ら譲り受けて、その保護者となるのである。万一特許権を犯せる者ある場合は、犯人の住所地の区裁判所に訴えることとなっている、等等いろいろと特許事務に関する有益な話があった。

自分の仕事が当時とほとんど変わってないことに驚いた。些末なことは絶えず変化しても、本質的な部分は変わらないままなんだろう。

「あなたは特許法の取調べに来られたそうだが、それなら英国政府に頼らないでむしろ特許弁理士について学んだ方がよろしい。また近くイタリーで、万国特許会議が開催せらるるから、イタリーへ行って、多数諸国の特許関係の官吏とも面会し、その人たちについて研究したらよかろう。

この万国特許会議というのが気になる。

なおあなたの研究を十分にするためには、多くの人と広く交わり、懇意とならねばならぬ。また特許弁理士に就いて研究するからには、相当の謝礼はされたがよかろう」

当時から特許弁理士というのはこういうイメージなんだな。

「フランスには特に発明保護の規則はない。発明者は雛形を特許局に提出する。時には局の方より進んで発明者に提出方を要求することもある。そうして発明品の明細書や図面は、それぞれ種類によって分別し一般公衆の閲覧に供することになっている。なかんずく、当局にて有益と認めたる図面のごときは、これを拡大複写して一般の閲覧に供している」

・・・

だんだんと英国の特許制度を調べて見ると、すでに米国を研究した目にはむしろ教えてやりたいくらいに遅れている。別に学ぶべき多くの事柄も見出さなかったが、ただここでも重要な仕事は米仏と同じく諸種の参考書を蒐集することであった。

・・・

だんだん調べて見るとドイツの特許制度も仏国と同じく、米国のそれに比すれば、遙かに遅れておった。

主観的な意見ではあるけれども、非常に興味深いと思う。

ある日、公使館で、ベルリン屈指の特許弁理士であるユーゴー・バタキー氏に紹介されたので、私は「ドイツでは、現行法の下に工業所有権者は十分に保護されているか」と尋ねて見たら、同氏は「決して十分に保護されていない。ドイツの現行法には幾多の欠陥がある」といって左の三点を挙げた。即ちその第一は、商標、衣装、特許等の登録を官報に掲載することである。官報に掲載するがゆえに、一般公衆はその広告を見ない。従っていかなるものが保護されているかそれを知ることが出来ないのである。第二には、数字や言葉を商標と認めないことである新たに創造された物の名称ごときは、商標として保護すべき十分の価値あるにも拘らず、ドイツの現行法はこれを保護せずして、商標として登録を受くるためには、何らかの形像(Image)たることを必要としている。第三には保護の範囲があまりに狭隘なることである。例えば、化学品には特許を与えていない。しかるに化学品の保護こそ最も肝要である。またドイツでは検査があまりに厳重で出願の6割までは不許可となっている。ゆえに米国に比すれば保護最も薄しといわねばならぬ、云々といっていた。

弁理士がプロパテントなのは不思議ではない。当時も今も国によってスタンスが違って非常に面白い。

「実は山林局農務局所管の地所を売った金が八万円ほどある。省内の各局長は、それを各局に分割してめいめいに使いたいという。特許局はもと工務局から分かれたものだから、工務局と特許局で二万円、あとを農務局と山林局とで分ける。もともと工務局には地所がなかったから、分け前が少いわけだ。しかし一応そうは決ったものの近く君が帰るというので、実は君の意見も聞きたいと思って待っていた次第だ」

「八万円の金を各局で分割して使おうといったってろくなことには使えまい。それより一層のこと全部俺に使わしてくれんか」

「何にするんだ」

「俺はそれで特許局を建てる」

交渉というのはこうやってやるものなんだな。

「吉田次官が君のことを大変に面白くないようにいっていた。全体高橋という男は無作法千万の奴でまるでアメリカ人のような態度だ。人の前に突立って、ぞんざいに物をいう」

当然こういうことを何度となく言われたんだろうけど、そんなことにはめげない実行力があったわけだ。

米国で聞くところによると、当時米国の特許院では、約80万ドルの剰余金があった。こんな剰余金がどうして出来たかといえば、元来特許料や登録料は、政府の歳入を目的として設けられた物でないから、一般会計とは区別して特別の会計となっていた。それが、経費を払って残った金が積りに積って80万ドルにもなっていたのである。それで当局者の意見では、この剰余金の使途については大いに考究せねばならぬ。発明特許や商標登録の方から上って来た収入であるから、出来るだけ発明者や商人の利益になるように使わねばならぬ。それにはまず第一に、発明品の陳列館を拡張し、さらに余裕があれば、特許料及び登録料の値下げをなすべきもので、決して一般会計と混同せしめてはならぬ。また発明の審査や登録の手続きが迅速に行くように、内部の充実を図らねばならぬというような説明を聞いて、私も、それは極めて道理あることと思った。

この思想が現在でも続いているというのは非常に興味深い。

「日本では今条約改正ということで大変に騒いでいるが、ここに考えねばならぬことは今度の条約改正では、日本側から求むることはたくさんにあるが、外国側から日本に要求して利益となることはほとんどない。強いていえば発明、商標、版権の保護ぐらいのものである。しかるに版権と商標とはすでに警察でこれを保護しているということだが、その上に発明までも保護することになれば外国人が要求する事柄はすべて充たされて、あとには要求すべき利益は何もなくなってしまう。それで発明の保護だけは決定せずに残しておいて、条約改正の時にうまく利用することが日本のためである」

 知財権保護の法律とは外圧で作られるんだな。そして、政治とはこうやってやるものなんだなと思った。なかなか骨が折れる作業である。そんな感じで順風満帆に見えたが、ペルー銀山の案件に送り込まれ、壮大に騙されて、37歳にして財産と職を失うところで上巻が終わる。

 

高橋是清自伝 (上巻) (中公文庫)

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