現代ならではの体験をするということ

ここ数年、昔の偉い人がどんなにお金を積んでも権力を行使しても体験できなかったことをやろうというのを個人的な行動の指針にしている。21世紀らしいことをしようというわけである。我々は昔の人より未来に生きているので、今の技術を使った体験や最近出てきたものを楽しめるという特権があるのでそれを使おうということだ。昔の人が想像すらできなかったものが現代にはたくさんあるので、それを楽しんでいくだけでわりと面白いものに出会えるのではないかと思っている。

今年初音ミク×鼓童初音ミクシンフォニー、Bilibili WorldBilibili macro link に半ば強引に行った背景にはそんな指針があった。単に楽しそうだからというのはもちろんあるが、昔は存在しなかった何か新しいものには好奇心がそそられるわけである。毎年行きたいかどうかは別として、少なくとも一回は行かないとという気持ちにさせられる。

技術的にはボーンを入れて3Dモデリングされたキャラクターが演者の振り付けに従ったり細かい微調整をされたりしながら最終的に自在に動き回るようになったのが、ポリッドスクリーン上に映し出されてあたかもステージ上でキャラクターが動き回っているように見える仕組みである。しかしコンサート会場のようにある程度距離が離れた客席から見ると人間とキャラクターの区別がつかなくなる。バーチャルという表現はとても納得できるもので、確かに実質的に存在しているのだ。そしてスクリーン上の映像だから服が一瞬で入れ替わったり人が一瞬で入れ替わったりするのは何もおかしいことではないが、それでも昔ではあり得なかった演出が行われるのを見るのはとても楽しい。

それから周りのプロの存在も大きい。バックバンドや太鼓、オーケストラのプロがボーカロイドの歌声に対して寸分のずれもなく合わせていてさすがだし、客席もとても訓練されていて、見ていて気持ちの良い一体感がある。その辺りで自分が思い違いをしていたと気付かされる。ボーカロイドが人間っぽく見えるとかリアルだとかそんなことはどうでもよくて、一人のアーティストとして舞台を盛り上げて客席もそれを楽しんでいるだけなのだ。一人のアーティストとして扱うべきものなのだと。周りのプロも観客もみんなで見守ったり盛り上げたりする優しい世界がここにはあってそれがとても居心地の良いものとなっている。

大切なことは目に見えないというが、確かに目に見えるのは氷山の一角に過ぎないのかもしれない。背景知識やストーリー知らずに表面を眺めていても何も見えてこないかもしれない。確かに回数を重ねたり、周辺の知識を入れたり、出てくる人や曲のバックグラウンドを知ることにより全然違うものが見えてくる。目に見えるものと脳内補完されるものの組み合わせを体験と呼ぶのなら、いかに素晴らしいものを脳内補完できるようにお膳立てするのが現実の役割なんだろうかと感じることがある。いずれにせよ現代ならではの体験を楽しんでいけたら良い。