仮面を付けた妖怪

経緯は省くけど、昨日、仮面を付けた妖怪って知ってるかと聞かれた。いるなら、その仮面の目的は単に素顔を隠すことなのか、それとも仮面自体に特別な意味があるのかと。ちょっと考えて、仮面によりけりだろうと答えた。そして、素顔を隠すと言えばオペラ座の怪人を思い出すけど、仮面を付けた妖怪って思い浮かばないと答えた。帰ってから多少調べて、もうちょっと考えたので書いてみよう。質問者にわかりやすいように英語で書こうと思ったけど日本語でも一回書いておきたいと思ったので両方で書く予定。ほとんどの人にとってたぶんどうでもいいことなので、軽く流してくれたらよいです。あと基本的に京極夏彦の受け売りです。
「仮面を付けた妖怪」を考える前に「妖怪」の定義を考えた方がいいと思った。いろいろあるんだろうけど、自分の中でしっくりくる定義は、「キャラクター化された怪異」というもの。例外はいくつかあるがこれで考えてみたい。この定義では今のところ塗壁(ぬりかべ)が妖怪であって、ピカチュウが妖怪ではない、というあたりを例にとって簡単に説明してみようと思う。
塗壁というのは、そもそも福岡、大分辺りの海岸で夜道を歩いていて、急に前に進めなくなる現象である。実際には足が疲れていただけかもしれないのだが、その人は、不思議な現象、怪異だと思ったらしい。そういえば壁のようなものがあったかもしれないという無責任な尾ひれがついたりした伝言ゲームの結果、塗壁なるもののせいだとなり、塗壁がキャラクター化されて一人歩きすることになった。怪異を説明するための道具として登場するのが妖怪なんだろう。つまり人が不思議に思う現象に遭遇しなければ、妖怪というのは基本的に存在し得ない。
一方ピカチュウは、特に民間伝承とリンクされていない。近所のおばあちゃんが裏山でピカチュウに噛まれたとかそんな話は聞いたことがない。架空のもので、誰が創作したのかだいたい見当がついているものは、妖怪ではないと思う。しかしそれは今のところであって、今後ピカチュウにまつわる怪異に遭遇した人が登場したり、数百年経ってピカチュウの由来が不明確になったりすると、ピカチュウは妖怪化し得る。
人が不思議に思う現象の他の例として、袖引き小僧と家鳴(やな)りを説明しておこう。袖引き小僧は実に単純だ。その名の通り袖を引くだけだ。木の枝に引っかかったのかもしれないし、見えなかったけど人間が引っ張ったのかもしれない。よくわからない、不思議だ、でも不思議なのは怖い、原因が知りたい、誰かのせいなのだ、きっと袖引き小僧のせいだ。というわけで、妖怪の登場だ。一方、家鳴りは家で不審な音が鳴る現象だ。地震かもしれないし、近所で工事をしてるのかもしれないし、子供のいたずらなのかもしれない。でもよくわからないから、きっと家鳴りのせいだということみたい。妖怪というのは、人間が作り出した都合の良い存在なのだなあと改めて思う。
それでは冒頭の「仮面を付けた妖怪」に戻ることにする。ふと疑問に思ったが、この妖怪は、仮面を外しても妖怪なんだろうか、それとも人間なんだろうか。昨日帰ってすぐに、水木しげる妖怪原画集『妖鬼化(ムジャラ)』for iPadで調べてみたら、仮面のようなものをつけた妖怪はいくつか載っていた。この原画集が九州、沖縄編なのでそのあたりの妖怪だが、パントゥ(宮古島)、メンドン(硫黄島)、トシドン(甑島、こしきじま)、フサマラー(波照間島)がそんな雰囲気。秋田のなまはげを含めてもいいだろう。人間が妖怪を演じるために仮面を付けるのはわかるが、それは仮面を付けた妖怪なんだろうかと思ってしまった。仮面をつけているとわかった時点で、怪異も何も存在しなくなるので、妖怪でなくなってしまう気がする。用意した仮面の数よりも多くのなまはげが出現してしまったらとても怖いが、それは既に仮面を付けた妖怪ではない。
仮に、山で何者かに襲われて顔の皮を剥がされるなんて事件が多発したら、人間の顔の皮で仮面を作る「仮面を付けた妖怪」が登場してもおかしくない。たとえその原因が熊か猿であったとしても、人間の想像で「仮面を付けた妖怪」にしてしまえば、その地位は確固たるものになるだろう。仮面の目的はやっぱりケースバイケースだろうな。このあたりをもうちょっと突き詰めて話し合ってみたい(なにやってるんだか)。
追記
一応元ネタを紹介しておこう。

完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

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豆腐小僧双六道中ふりだし

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この辺の話が好きな人は、この2冊を読むと楽しめると思う。