自分が本を読むスタイル

三上さんの意見が面白かったので、ちょっと思うところを書いてみる。

例えば、私のある日の生活の実感を本に即してイメージするとしたら、「今日この一冊の本を読みました」では全然駄目なわけです。そうではなくて、「今日はこれら数百冊の本の数千カ所をこういう風に辿りました」という感じになるわけです。

いざ北へ2008その23 体験の敷居1 - 三上のブログ

読む本のタイプも頻度も考え方も全然違うだろうから、一般化するのは
けっこう無理があると思うけど、自分のスタイルを書いておこう。


本は何度も本屋に通いながら吟味して買い(月1万くらい)、
まず一度最初から最後まで通して読み(全然汚さない)、
もう一回ゆっくり読みながら、書き写しながらブログに書く。
家に帰るまでが遠足なように、ブログに書くまでが読書だと思ってる。
数年後もまた読みたいものを手元に残す。
(そもそも手元に残したくなりそうな本しか読まない)
自分にとって本はデータではなくアートなので、
役立つ本はなるべく読まないようにしてるつもり。
読んでいて楽しい本だけ読むようにしてるつもり。
だから目印なんてつけない。速読なんてしない。
本を読むのが楽しいから、急いでその楽しい時間を短縮するなんて
そもそも何か間違っている気がする。ゆっくりじっくり読む。
前に気になった箇所をのんびりとまた探すのが楽しいんじゃないか。
見つからなかったらまあ縁がなかったんだろうってことでいいよ。
また何かのきっかけで出会うことがあるかもしれないし。


というわけで「今日この一冊の本を読みました」をやってる。
これは粗い人力電子化なんだろう。忠実にやっちゃうとまずいし、無意味。
本というのは、読者というブラックボックスに入力した結果の出力が
完成形ではないかと思っている。読者の気分が変われば、本もまた変化する。
入力順によっても変わるし、時間が経っても変わる。場所でも変わる。
だから自分がやる人力電子化は、本からの引用と現在の出力を合わせたものだ。
同じ本を一年に一回読み返してとりあげるのも面白いかもしれない。
定点観測みたいなもので、一定の入力に対する出力の変化から
ブラックボックスの変化の一端をかいま見るのも楽しい。


でも自分は「今日はこれら数百冊の本の数千カ所をこういう風に辿りました」
ということもやってる。(いや、ずいぶんとスケールは小さくなるけど)
眼の誕生という本を読んで、googleのことを考え、別の本にたどり着いた。

これを読んでいて、まず思ったのはgoogleのこと。
世界を構造化するということは、どこに何があるかわかるようにするということ。
つまり「眼」が開きつつあるということである。それまで接触がなくのんびりと
していたものが、良いか悪いか別として「発見」されてしまうことである。

眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く - technophobia

現在の出力が「過去に読んだ本」ならば、自分の中で本と本の関連づけが生まれる。
それもまた検索できる形で記録する。つながりを記すためには点が必要だ。
人力電子化は、一つ一つ点を置くことに対応するのかもしれない。
自分なりに自分の言葉で書いた感想は、一つの点として機能する。
点と点のつなぎ方も一通りではない。実線だったり点線だったり、
波線だったり、伸び縮みしたり。これは、ぶっきらぼうな単純リンク、
丁寧に書き記したアナロジー、とかいろいろありそうだ。


というわけで、何が言いたいかというと、自分は
「今日この一冊の本を読みました」で人力電子化をして、本というフィジカルなものをウェブに落とし込み、自分の中のウェブの世界に一つの点を置く。
そこには自分の言葉が必要だ。だって自分の世界なんだから。借り物じゃない。
この点は、ちょこまか動き回るけど、日々つながったり離れたりするし、
自分自身と日々インタラクションする。実は、ほぼ毎日自分のブログ内全文検索
ブックマーク内検索をしてるのだ。ブログは脳の一部なんだと思ってる。
その辺の連鎖反応の1つが「本と本をつなぐこと」じゃないかという印象。
自分には、点置いて、つなぐという2つのステップが必要って言いたかっただけ。


こんな感じで、日々接する本について考えるのは楽しい。

ある意味で、まだ少しは拘っているところがあるんだけど、「頁」という敷居についても、人生の一頁とか、確かに言うけれども、私としては、取っ払ってしまいたい衝動がある。

いざ北へ2008その22 頁のない本 - 三上のブログ

これを読んで思い出したのは、以前読んだ本。

フランスの歴史家アンリ・ジャン・マルタンは次のように述べている。「片面にだけ文字を書いた巻物とちがって、ページの両面に字を書く冊子の出現は、間違いなく本の歴史上最も重要な革命であった」

文字の歴史 - technophobia

本から巻物への回帰。もちろん先端技術で発展させながら。
両方の良いところを最大限に生かしたものなんだろうな、と妄想する。

アウグスティヌスが、師である聖アンブロシウスが黙って本を読むのを見て、どうして不思議に思ったかというと、西欧では紀元数世紀まで、声に出して本を読むのが普通だったのである。

なんか知らないことばっかりだ。自分が今当たり前と思っていることの大半は、非常に歴史の浅いものなのかもしれない。

文字の歴史 - technophobia

何が起こるのか、何を起こすのか。いずれにせよ、変化というのは面白い。