生きてる本の話

大きく的を外しているかもしれないし、案外良い線いってるかもしれないし
いずれにしても誰かさんのように射貫いたところに的を書けばいいので
矢を射てみる。そうしないことには始まらないんだろうし。

本って一体何かはその人が本と具体的にどう付き合ってるかによって決まる。だから、本の本当の姿は見えている姿とはかなり異質だと思ったほうがいい。その人の本との付き合い方の全体がその人にとっての本の真の姿だ。それは決して誰にとっても同じような形をした、あの本ではない。人それぞれにとっての個別的に真実な本の姿がある。その真実の本の姿が、実はウェブ上でかなり理想に近い形で日々生成しているのではないかというのが、昨日から私が仄めかしている仮説である。

いざ北へ2008その22 頁のない本 - 三上のブログ

これが、一人の本好きとしてかなり気になるテーマ。

「もっと開かれた本」の筈だ、と。ウェブに旧来のブックのアナロジーを一切持ち込まない「本」の筈だ

いざ北へ2008その18 もっと開かれた「本」 - 三上のブログ

今から50年後、100年後、本という言葉があるのかないのか。
もしあるとすれば、その言葉が指し示す領域に変化があるのかないのか。
もし変化があるとすれば、その領域はどのあたりになるのか。
その辺りを想像すると楽しそうじゃないの?と今のところ解釈している。


電話が固定されているのが当たり前だった頃、固定電話なんて言葉は
なかったと思う。固定電話がなかったのではなく、その言葉がなかった。
E-mailがなかった頃、snail mailなんて言葉もなかったと思う。
早いとか遅いとかは、比較対象があるから必要に迫られてつけられる言葉だ。
今手元にある、出版社、印刷所、取次、書店などを経由してやってきてる本は
紙の本と言われるんだろうか。既に言われているんだろうか。本ってなんだろう。

届くもなんも、みんなひとつの大きな劇場というか、本というか、マガジンというか、そんな風に感じられるウェブ、ブログの上で、毎日連鎖的にしかも絡み合うようにして起こっている出来事じゃないか。

いざ北へ2008おまけ2 爺の最後のホラ:メディアXのマスター・プラン - 三上のブログ

歴史書というのは、歴史という本の写本なのかもしれない。


我ながらなんか前振りが長いな。以前「自分にとって本はアートだ」と書いた。
アートにもいろいろ定義があるんだろうけど、意図としては
完成されたもの、変化しないもの、辺りを考えている。
(見る人がいろいろいじるアートもあるのは知ってるけど、除外しておこう)
コアな部分をつくる著者と、磨き上げる編集者の共同作業でできたアート。
動かない。死んでいる(悪い意味ではない)。改訂されるけど
それはセミの抜け殻みたいなもので、セミそのものではない。
きれいに磨き上げたセミの抜け殻というアートなんだろうと思ってる。
セミは短命だけれども、このアートはモノによっては長生きする。
これはこれで完成されていて、別に悪いってわけじゃない。


でもちょっとした自由のために、別の選択肢があっても楽しそうだ。
三上さんは、その一つとしてブログをほのめかす。
梅田さんは、ブログだとあまりに秩序がないといって、ウェブブックを出す。
そこで自分なら何を提示するんだろう。生きている本なのかな。
人生を一冊の本として、生きている本を考えると

ネット上の僕の分身が僕のブログだから、そこはまず行きます。現実世界でも、「家、火事になっていないかな」って心配したり、家族が元気かどうか確かめるために電話したりしますよね。

ウェブ人間論 - technophobia

ここにたどり着くような気がする。「ネット上の僕の分身」である。
そうすると、自然とアウトプット思考になるはずである。
だって、同期をとり続けないと、この分身は全然進んでくれないから。
ネット上で何かを発信することは、この分身の呼吸に対応する。
一回死んでしまうと、生き返らせるのがなかなか大変。
死んでしまうことは、自分がそちらにアウトプットする習慣が
なくなってしまうんだから、習慣を取り戻すのが大変なように、大変である。
見返りなんて期待しない行為。それがブログでありブックマークである。
そうじゃないと、1200日もブログを書けないし、2万もブックマークできない。
でも楽しいし、この分身のおかげで今があると言っても過言ではない。
ビジュアルプロフィールは、この分身の歴史なのかもしれない。


もう一つ、大切なことを書き忘れてた。一人じゃないと言うことだ。
元記事があるからブックマークできるし、その情報の存在を知らせてくれた人が
いるからブックマークできる。日々連鎖反応が起きているのである。
今日の記事だって、興味深い問題提起をしてくれた人がいるから書ける。
書いた言葉が思いの外遠くまで届くのは、この分身にしかできない芸当だ。
「ブログに書くまでが読書」であり、「読」み「書」きが大切だから
他の人の「本」を読み、自分の「本」を書いて、分身が動き出す。
この分身をきっかけに何かが始まる。それってけっこう楽しくないだろうか。


まあ、理屈なんていらない。ただこのわざとらしい人と会って話がしたいだけだから。

今日の午後、自宅の裏山でヒグマの親子に遭遇しました!

いざ北へ2008その5 ヒグマも待っている! - 三上のブログ